<讃美歌>讃美歌288番「光のわが主よ」

<聖書日課>ヨハネ7章53~8章11節「自分の罪に気づく」

私たちは、この箇所を「姦淫の現場で捕まった女」の話としてよく知っています。この箇所は、もともとはヨハネの福音書にはなく、後世になって挿入された話とされています。

しかしこの話は、イエス様がすべての人の罪を赦す権威を持っておられることを表わしている話として、その価値が認められています。

律法学者とパリサイ人は、イエス様のことば尻や失敗を見つけて人気を失墜させ、またローマに訴える機会を狙っていました。今回も、彼らの下心をハッキリと見ることができます。

女は姦淫の現場で捕らえられたので、男も現場で捕らえられているはずです。

律法学者とパリサイ人は、女だけをイエス様の前に連れ出しました。それはイエス様も、男よりも女を石打にする方が、感情的に揺れ動くと考えたのでしょう。

それで、彼らはイエス様に「あなたは、この女をどうさばきますか」と訴え続けたのです。しかしイエス様は、初めは彼らの訴えを無視されました。そこには、イエス様の無言の声があります。

私は、イエス様の沈黙の中に「あなたは、自分の罪をどのように処罰するのか」との声を聞きます。ただ律法学者とパリサイ人には、イエス様の無言の声はまったく響きませんでした。

それでイエス様は、おもむろに立ち上がって「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたのです。

このことばで、律法学者とパリサイ人は去って行きました。自分たちの罪をその場に残して、去って行ったのです。

イエス様は、ここで女の罪を指摘するよりも、律法学者とパリサイ人に自らの罪を気づかせようとされたのです。彼らの罪は、自分たちをまったく正しい者として他の者の罪を指摘し、またイエス様を罠に陥れようとするところにあったのです。

イエス様は、ひとり残された女に言われます。「わたしはあなたを罪に定めない」。このことばは、後に十字架についてすべての人の罪を赦すことになる、イエス様の救い主としての宣言です。

女の罪はこのことばで赦されました。しかし律法学者とパリサイ人の罪は残ってしまいました。

私たち信仰者もこの世にあっては依然として罪びとです。しかし、その罪に気が付き、主に赦しを求める謙虚さを持ち続けなければなりません。

八鹿教会の一人ひとりが、そのようにイエス様に頼る信仰生活を続けられますように願っています。

アーメン

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