2026年09月27日(日)

=あなたが苦難の先に希望を見るために =

【要約】<旧約>出エジプト記17章1~16節

Ⅰ、苦難には二種類ある : 信仰者に与えられる苦難には二種類あります。内側から来る苦難と、外側から来る苦難です。イスラエルの民はレフィディムまで来ましたが、そこには水がなかった。

人々は不平を言います。不平不満。それが人の<内側から出てくる苦難>です。それは状況が悪いから苦しむ苦難ではなく、「心が主を信頼していない」から苦しむ苦難です。

私たちも生活の中で<内側からの苦難>を体験します。・家庭の中ですぐにイライラする。・誰かのことばに過敏に反応してしまう。・祈りよりも愚痴が先に出てくる。

それらは内側から出てくる苦難であり、その者の「主への信頼の欠如」が生み出す苦難です。

さてアマレク人が戦いを挑んできました。これは外側から来る苦難です。私たちにも、時に外側から「自分ではどうにもできない苦難」が襲ってきます。

突然重い病気になったり、家庭内の問題が急に襲ってくることもあります。それらは「自分の心の問題」ではなく、外側から突然襲ってくる苦難です。

Ⅱ、主はなぜ苦難を置かれるのか : 何故、主は私たちの前に苦難を置かれるのか。一つは、私たちの限界を明らかにするためにです。

“水がない”とか“アマレク人が襲ってくる”ことは、人の力ではどうすることもできないことです。その苦難に対して不平不満を口にするとき、それは私たちの心の弱さを明らかにします。

不平不満は不信仰から出てきます。そのとき私たちは、自分の信仰の弱さや限界を明らかにされます。

もう一つの理由は、主の力を体験するためです。レフィディムには水はありません。主は、モーセをホレブの山の岩の前に連れて行かれました。

そこで主は、その岩の上に立たれ、モーセが杖で岩を打つと岩から大量の水が出てきたのです。主の力を体験させていただくことは大きな励ましです。

またこの出来事は、すべての人々の罪を負って十字架で死んでくださったイエス・キリストの受難を予表しています。岩から流れ出た水は、イエス様の昇天後に与えられる聖霊を象徴しています。

岩から流れ出た水は、人々の喉の渇きを癒しましたが、キリストの死と復活によって与えられる聖霊は、人々の心の渇きを癒すのです。

また民は、アマレクとの戦いにおいても<主の大きな力>を体験しました。戦いの前モーセは主に聞いたでしょう。答えは「祈れ!」でした。

そうしてモーセは丘の上に登り、兵士たちが戦っている間、手を上げて祈っていたのです。主はモーセに祈ることを求められ、祈りの応えとして勝利を与えてくださいました。

私たちにも外的な苦難は突然やって来ます。そのとき主は、私たちに“祈る”ことを求められます。そして祈りを通して、私たちは「主がともに戦ってくださる」ことを体験するのです。

Ⅲ、苦難は「主を知るため」の学校 : 民は苦難によって「主に信頼する」ことを学びました。またアマレクと戦ったとき、「主は祈りに応えてくださる」ことを学びました。

苦難は<主の真実を体験する場>として私たちに備えられるのです。

パウロは言います。『私は苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており‥』。(Ⅱテモテ1章12節)

パウロは苦難を通して、イエス・キリストが誰かをハッキリと教えられたのです。苦難は主を知るための学校であり、主の力を体験するための舞台です。

Ⅳ、苦難の先にある希望 : そして苦難を通してイエス・キリストを教えられた者には<永遠のいのちの希望>が与えられます。

パウロは言います。『(私は)苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです』。(ローマ5章3~5節)

主によって備えられた苦難は、その者の心の内に“永遠のいのちの希望”を生み出します。

Ⅴ、私が教えられるべきこと(結論) : 私たちはこの世の荒野で生かされています。これからも主は、あなたに苦難を与えられます。

それはあなたがその苦難を通して、イエス・キリストをもっと深く教えられ、苦難の先にある<永遠のいのちの希望>をはっきりと見るためにです。苦難は終わりではなく、希望への入り口です。

その苦難を乗り越えた時、あなたは<永遠のいのちの希望>に向かって、力強く歩みだす者と変えられるのです。