2026年9月20日(日)
=主を更に信頼する者となるために=
【要約】<旧約>出エジプト記15章22節~16章15節
Ⅰ、民の不平 : 不平不満とは、神の恵みの記憶が薄れることです。イスラエルの民は、数日前に海の中に出来た道を歩いたばかりです。彼らは神の恵みを忘れ不平を言ったのです。
私たちも何度も奇跡的な道を歩いて来たのにそれを忘れ、何か都合の悪いことが起きるとすぐに不平不満を口にする。私たちがいつも主に感謝する者であるなら、不平不満は出てきません。
主は、あなたが「主に信頼する民」と変えられるために、忍耐をもって荒野の恵みを与えておられます。
Ⅱ、恵みの場所(エリム) : エリムはオアシスのような場所です。しかし、主はエリムにしばらく滞在しただけで、民をシンの荒野に導かれました。なぜ主は、エリムに数日しか滞在せずに荒野へ人々を導かれたのでしょうか。
一つは、そこが目的地ではないからです。そこに長く留まると「ここで十分だ」と主張する者が出てきます。人はその状況がどれほど素晴らしく見えても、主が備えてくださったものでないなら、そこに未練を残してはなりません。
もう一つは、人々が神の憐れみを忘れるからです。人は主の恵みを忘れた時、主がともにおられることを忘れる。そうして信仰者は世の人に戻ってしまう。
この世の社会で成功している時、人は高慢になって神を忘れます。私たちは、日々みことばによって養われる生活を続けなければなりません。
Ⅲ、荒野での不平 : 荒野には肉の糧はありません。それで人々は「エジプトが良かった」と不平を言います。エジプトがそんなに良かったのでしょうか。
人は今の<苦しみの色眼鏡>を通して過去を振り返った時、昔の苦しさが楽しかった思い出のように映ります。
過去を振り返って昔を懐かしむのはクリスチャンではありません。信仰者は、イエス・キリストが与えてくださった希望によって、来るべき未来を見つめるのです。
そして主は、イスラエルの民に「ご自分を忘れないように」と毎日<マナの奇跡>をもってご自分の存在を示してくださいました。
Ⅳ、現代の信仰者の荒野 : 信仰者も“社会の荒野”に追いやられます。病の荒野/経済的困窮の荒野/精神的に困難を覚える荒野/人間関係がうまくいかない荒野です。
そして私たちがイエス・キリストから目をそらすとき、教会の中/あなたの心の中に簡単に荒野が作られます。そしてあなたが荒野で苦しむ時こそ、あなたへの主の恵みが増し加えられるときです。
荒野は、私たちを信仰者として成長させる教育の場です。荒野こそ、私たちにとって神の臨在がもっとも色濃く表れる場だからです。
人生の荒野は、私たちを信仰者として養うために置かれた場です。信仰者にとって荒野は、神が私のためにどれ程大きな愛をもって養ってくださるのかを教えます。イエス・キリストが私にとって誰なのかを示すのです。
Ⅴ、いのちのパンを食べる者 : イエス・キリストこそが、荒野において私たちに与えられたマナです。
私たちも、この世の荒野でもまれながら、天から与えられたマナであるイエス・キリストを食べ続け、約束の地である天の御国へ導かれるのです。
荒野は環境の厳しい場所です。荒野は、私たちの力が尽きる場所/知恵が通用しない場所/プライドが砕かれる場所です。 しかし同時に、荒野こそが、私たちがイエス・キリストを最も甘く、最も豊かに、最も確かに味わえる場所なのです。
主は<荒野でこそ与えたい恵み>を持っておられます。社会の荒野に追いやられた時、それは主が私たちを見捨てたのではなく、私たちに「マナを味わわせたい」と願っておられるのです。
そして私たちが、現代のマナであるイエス・キリストを食べるとは「キリストの恵みを求める姿勢を選び取ること」、「キリストのことばを、今日の必要として受け取ること」、「キリストの恵みを、今日のパン(生きる力)として味わうこと」です。
荒野は私たちを弱くします。しかしその弱さこそが、キリストを味わう入り口であり、そこを通ってこそ、あなたを“心豊かな信仰者”とする道が開かれるのです。