=あなたが真に神様の招きの祝福を受けるために=

<福音書>ルカの福音書14114

パリサイ人がイエス様を食事に招待しました。イエス様の席の正面に、水腫をわずらっている人がいました。パリサイ人たちは、イエス様が安息日に病のものを癒すかどうかを見ていたのです。

そのパリサイ人の心の思いを知った上で、イエス様は水腫の男を癒された。

イエス様は「あなたの息子や牛が井戸に落ちたら、安息日でも引き上げるでしょう」と言って彼らの安息日律法の解釈の矛盾を指摘されたのです。

パリサイ人たちは、「神の招きに入る道は、律法以外にない」と思いこんでいました。しかし、人が律法を守ろうとして教えられることは「私には、律法を守る力がない」ということです。

人は律法を守ろうとすればするほど、自分の無力さを教えられます。無力さとは“罪”です。律法によって、人は自分の罪深さを教えられるのです。

しかしながら、人が自分の罪を教えられるとは謙遜さを学ぶ機会でもあります。

謙遜さを学ばない者は、神の前に高慢になる。パリサイ人も「私は律法を守っている」と高慢になったのです。

そこでイエス様は「披露宴に招かれた客」のたとえ話で「心底、低い者になりなさい」と言われました。

人は自分を低いところに置いて心を低くしなければ、見ることのできないものがあるからです。それはイエス・キリストです。世の一番低い所に降りてきてくださったからです。

この低くなられたイエス様の姿に気がついた時、あなたは自分がいかに高いところに座っていたかを教えられ謙虚な者とされるのです。

そして、そのように低くされた者を、神様はご自分のもとに高く引きあげられます。

それ故、イエス様はパリサイ人に「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と教えられたのです。

またイエス様は、お返しを考えずに人を招きなさいと言われます。そのことばは、私たちに“無心”になることを求めます。人は自分の努力で無心になれません。

私たちが無心になるために立つべき所は、イエス・キリスト以外にありません。

私たちは、イエス様にすべてを任せた時に、自分の欲から解放され無心な者とされ<神の招きを受ける道>が開けるのです。

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