2026年08月02日(日)

=神を近くに見る者とされるために=

【要約】<旧約>出エジプト記3112

「ここに近づいてはならない」。なぜ人は、神に近づくことができないのでしょうか。神は絶対的に聖なる方であり、人は罪ある存在だからです。

罪ある者は、聖なる神に近づくことはできない」。これは“旧約の鉄則”です。

ではどうして神はモーセを“神の山ホレブ”に導かれたのでしょうか。神が絶対者であることを教えるためにです。これからモーセは「神の代理人」として立ち、神の民をエジプトから導き出そうとしています。

そのためモーセは、神が絶対的権威を持っておられ、絶対的に聖なるお方であることを教えられねばならなかったのです。「主が絶対的な方である」ことを知らない者は、神の代理人として立つことはできません

私たちも、主を絶対的な聖なる方として世と区別しなければなりません。

また人の最終目標は神に近づくことです。神に近づいて、神とともに永遠を過ごすことです。今モーセは、何の備えもなく、自分の足で神に近づこうとしました。だから主は注意されたのです。

人は、自分の力では神に近づくことはできません。しかしここに、人が神に近づくことのできる一つの道が隠されています。

それは、神の側で、人が神に近づく道を備えることです。そうです、神が備えられた道を通る以外に、人が神に近づく方法はありません。この原則が、後に十字架によって完成する“福音の構造”の土台です。

ともすれば、人は努力して神のところへ登ろうとします。しかし人がどんなに頑張っても、神のもとに近づくことはできません。いや、神の方で「ここに近づいてはならない」と拒否されます。

さて主は、神の臨在を目の当たりにして恐れるモーセに使命を与えられました。『今、行け。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ』と。 モーセの戸惑う姿が目に見えるようです。

しかし神は、弱音を吐くモーセ自身については何も語っておられません。その者がどのような性格であり、どのような教育を受け、どのような実績を積んできたのか、それらのことは、主の前にまったく関係のないことです。

だから主は言われます。『わたしが、あなたとともにいる』。これは、すべての人に対する<神の救いの宣言>です。 そのことばは「全知全能の神であるわたしが“あなたがわたしとともにいる道”を備える。

だからあなたは、その道を通ってわたしに近づきなさい」との召命のことばです。 そうして主は、その道を通ってご自分に近づく者に使命を与えて祝福してくださるのです。

そうです、「神がともにいてくださる」とは、神があなたの“行き場のない場所(途方に暮れて困っている場所)”に降りて来てくださることです。

主は、私たち一人ひとりの<神とお会いする場所>“ホレブの山”をご存じです。私たち信仰者も、いろいろな事で悩み、時によっては途方に暮れることもあります。

祈っても、祈っても応えが見えてこない。でもそのような状況こそが、あなたにとってのホレブの山(神と出会う場所)ではないでしょうか。

すべての人は、自分の罪のために途方に暮れる時が必ず来ます。しかしすべての人のために、主は“ご自分に近づく道”を備えてくださいました。

その道はイエス・キリスト。すべての人には、イエス・キリストの十字架の血による罪の贖いとその信仰によって“神に近づく道”が備えられました。

旧約の基本的な教えは「神に近づくな」です。しかし新約の時代になって、「大胆に近づけ」と主は言われる。『ですから私たちは、‥折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか』。(へブル4章16節)

この転換は、主が備えてくださった道(イエス・キリストの十字架)によってのみ可能となったのです。

モーセは「わたしが、あなたとともにいる」との約束とともに、イスラエルの民をエジプトから導き出す使命を与えられました。

同じように、私たちは『見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます』(マタイ28章20節)との約束によって聖霊が与えられ、この世の民を罪の奴隷(霊的エジプト)から導き出す使命が与えられています。

それ故「わたしが、あなたとともにいる」との神のことばは、「あなたは、イエス・キリストをもっと深く教えられ忠実に従いなさい」との響きを持って私たちに迫ってくるのです。

これからも私たちは「わたしが、あなたとともにいる」とのことばの中にある“神の愛”を見出し、生涯のすべてを主に委ねて歩ませていただけるのです。