2026年07月05日(日)
=神の道に生きるすばらしさに気がつくために=
【要約】<旧約聖書>創世記42章1~24, 29, 36節
いよいよ大飢饉が始まりました。それでヤコブは息子たちに言います。「お前たちはエジプトに行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう」。
ここに罪の滅びからの救いの道が示されています。預言者アモスは言います。『わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である』と。(アモス8章11節)
人が主のことばをないがしろにしたとき=みことばの飢饉のとき=その者は罪に犯され滅びへと突き進みます。でもそこに救いの道が示されました。
すべての者は、罪による永遠の死の滅びから救われるためにイエス・キリストのもとへ行かねばなりません。
しかしヤコブは、ベニヤミンを兄たちと一緒に送らなかった。ヤコブは、一番大切なものを手放さなかった。その“かたくなさ”が救いの道を閉ざしていました。
人が必死になって“罪”=神よりも大切なもの=を握りしめているときは、決して救いの道は開きません。それを手放したときに“天の御国への道”は開かれるのです。
私たちはイエス・キリストよりも大切なものを握りしめていないでしょうか?財産を持つこと、名誉を得ること、権限を持つことが悪いのではありません。それに固執することが悪いのです。
それによって見るべきものが見えなくなるからです。あなたが執着すべきはただ一つ、イエス・キリストだけです。あなたがイエス・キリストをしっかりと見るとき「ここに私が生きる道がある」と気づかされます。
さてヨセフの兄たちは、エジプトに来てヨセフの前に出ました。ヨセフは兄たちだと分かりました。でもヨセフは、「復讐する絶好のチャンスだ」とは思わなかった。主の導きを確信していたからです。
主が自分を導いておられることを知っている者は、主にすべてを委ねて悪い想いから解放されます。
ヨセフは「主が、ヤコブ一族をエジプトへ導いておられ、自分は先駆けとしてエジプトへ送られ権力者とされた」ことを理解して「ここに“生きる道”がある」と確信したのです。
あなたの人生の中心に真の神を見る時に、主は“あなたが生きる道”を教えてくださいます。
ヨセフは兄弟たちに言います。『おまえたちは回し者だ』と。兄たちは答えます。『私たちは正直者です』。ヨセフは“正直者”とのことばに引っかかりました。ヨセフは、兄たちを罪の悔い改めへ導くために「ベニヤミンを連れてこい」と言ったのです。
罪の悔い改めは、常に救いに先立ちます。その原則は今の時代も変わりません。
兄たちは互いに言います。「われわれは弟のことで罰を受けている」。「今われわれは、ヨセフの血の報いを受けている」と。兄たちのことばを聞いてヨセフは泣いた。
その涙は、兄たちが過去の過ちを悔い改めたことを知った“喜びの涙”です。憎しみの涙を喜びの涙に変えるのは「神のわざ」です。
ヤコブは、最も大切なものとして握りしめていたもの(ベニヤミン)を手放すことを求められました。人は、神よりも大切なものを握りしめている間は、永遠のいのちを得ることはできません。
人は、主を信頼してすべてを手放す覚悟が求められます。そのような者に、主は永遠のいのちに<生きる道>を示し、まことの満足を与えてくださるのです。
この物語は、ヨセフは“キリストの型”、兄たちは“罪人の型”として描いています。そこから教えられることは、「私たち罪人は、徹底的に罪を悔い改めて、キリストの前に出なければ<真の生きる道は>見えてこない」事実です。
そして、そのようにキリストの前に出る者に、恵みとして永遠のいのちに生きる道が示されるのです。主は「人が生きる道は、悔い改めてイエス・キリストの御前に出ること以外にない」と教えておられます。
悔い改めとは、「自分の力ではなく、キリストのもとへ帰ること」、「自分の義ではなく、キリストの義に頼ること」、「自分の道ではなく、キリストの道を歩むこと」です。
そのような者を通して、主はご自分を新たな人へ現わされるのです。それが、クリスチャンが<生きるべき道>です。