=あなたが更にイエス様に信頼するために=

<福音書>マタイ9章9~13, 18~26節

イエス様は、収税所の前にむなしく座っているマタイに「取税人をやめ、弟子としてわたしに従いなさい」と言われました。イエス様は、人が決して損になるようなことは要求されません。

主は、人を招かれるとき、いつも何か捨てることを求められます。しかし、あなたが主に信頼して歩み出すとき、主はあなたが捨てたものよりもはるかに素晴らしいものを与えて下さいます

マタイは、イエス様に呼ばれ嬉しくて、イエス様や弟子たち、それに取税人や罪人と呼ばれる人を食事に招きました。しかしパリサイ人はイエス様が罪人とともに食事をするのを非難しました。

彼らは、他の者の罪はよく見えたけれど、自分たちの罪は見えなかった。自分の罪が見えない者は、神の憐みに頼ることができません

すべての人は、自分が罪の病にかかっていることを知らねばなりません。

主の癒しは完全です。なぜなら、イエス様は、患者に一時的な治療をされるのではなく、その者を新しい人間に作り変えられるからです。

そのようにして、神の愛は、憐れみを求めてご自分のところに来る者の上に注がれるのです。

イエス様は言われます。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』と。イエス様は、罪を悔い改めてご自分に頼ることを求めておられます。

マタイは、自分の罪を教えられ、憐れみを受けてイエス様に従いました。パリサイ人たちは、依然として、神の前に“見せかけのいけにえ”を供え続けていた。

私たちは、パリサイ人のように“見せかけのいけにえ”をささげることはないでしょうか。 イエス様はここで、私たちが外面的・形式的な自己義認に陥らないように注意しておられる。

と同時に、私たちがどれ程罪深いと思えるような状態であっても、イエス様は「謙虚に、憐れみを求めて、わたしのところに来なさい」と言われるのです。

主の憐れみにすがることは、イエス・キリストへの真の愛の現れです。主は、謙虚になってご自分のところに来るすべての者を憐れもうとされている。

主のあわれみは、汲んでも汲んでも尽きることのない愛の泉です。主は、あなたがいつもご自分のところに来るのを待っておられるのです。

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