2026年05月31日(日)
=あなたがそのままで主の処に行くために=
【要約】<旧約>創世記29章9~35節
神の御手は、必要な時に、確実に素早く動きます。
ラバンはヤコブに言います。『あなたは、どういう報酬が欲しいのか』。 ここからヤコブとラバンのかけ引きが始まります。残念なことですが、私たちはヤコブとラバンの会話に、神を見ることはできません。
そこに見るものは、ラバンのずる賢さです。 ヤコブは「ラケルと結婚するために、7年間ラバンに仕える」と申し出ます。しかし7年が終わり、妻としてヤコブに与えられた娘は姉のレアでした。
このヤコブとラバンの一連の会話の中に、私たちは人間の醜さが凝縮されているように感じます。しかし、そのような所においても神のご計画は進められるのです。
さてレアはヤコブに四人の男の子を産みました。ルベン/シメオン/レビ/ユダです。その一方で、ラケルは不妊の女性でした。ここにも私たちは、レアとラケルの間の嫉妬と競争という対立を見出します。
神は、救い主の本質、すなわち「罪人のただ中に来られ、罪人を救う方」を鮮明に浮かび上がらせるために罪に満ちた弱い家庭を用いられました。
ルベンを産んだときレアには、夫に愛されない女性の淋しさがありました。シメオンを産んだときレアには、夫に嫌われている女性の悲しさがありました。
レビを産んだときレアには、夫と心が通じ合わない女性のむなしさがありました。しかしユダを産んだときにレアは言います。『私は主をほめたたえます』と。
ここには、人の愛を求めて破れ続けた女性が、心の目が開かれ、神の愛に気づかされたときの、喜びと平安があります。それはレアの劇的な“霊的な転換”です。
神は“模範的な家族”を選ばれたのではなく“問題だらけの家族”を選ばれました。これは救済の歴史の中に示された<神の意志>です。神は、恵みが恵みとして輝くために、弱さと罪のただ中に働かれるのです。
そしてそのことは、私たちに三つの<主の愛の本質>を教えます。
一つは、「神の選びは、人間の価値によらない」ことです。主は、罪深いヤコブを選ばれました。人の知恵で「誰が選ばれるか」を判断することはできません。
二つ目は、「神は人間の罪をも用いてご計画を進められる」ことです。神は人の欺きや争いを織り込みながら12部族を生み出されたのです。
三つ目は、「神の恵みは“弱さの中でこそ”輝く」ことです。弱さや欠点だらけであっても、そこに神の恵みは満ちるのです。
今日のみことばは“私たちの罪深さ”と“主のご計画の確かさ”を強調しています。 主は「愛されない者」を選び、「選ばれない者」を祝福の器とされたのです。これは「神は弱い者を選ばれる」という聖書の一貫した主張です。
創世記29章の物語は、欺き/嫉妬と競争/偏愛/家族の混乱という“罪の渦”の中で進みます。しかし、その中で神はイスラエルの家を建て始められるのです。
罪は神のご計画を止めることはできません。むしろ、罪のただ中にあってこそ、神の恵みが輝くのです。
今日のみことばは語りかけます。「あなたは罪深いまま(弱いまま)で、わたしのところに来なさい。悔い改めて謙虚な者として来なさい」と。これは福音の本質です。
なぜ神は、人に悔い改めを求められるのか? 神は、自己中心なヤコブを見捨てずに導き続けられたからです。
またここにはレアの涙があります。レアは、最も弱い立場に置かれている“涙の主人公”です。その涙の主人公をも、主は憐れんでくださり<主をほめたたえる者>と変えてくださいました。
私たちも弱さを持った罪人として、遣わされたところで生かされています。自分の好き嫌いや策略の中で生きることはないでしょうか。それはイエス・キリストを横に置いて、自分中心に生きる姿です。
またレアのように、悲しみの涙に浸っていることはないでしょうか。主はあなたの涙を見ておられます。レアは“人の愛や憐れみ”から“神の愛”に心を向けたときに「私は主をほめたたえます」と賛美しました。
あなたの中にある自我は何でしょうか。あなたの心を悩ませている弱さは何でしょうか。あなたの信仰生活の“ど真ん中”にイエス・キリストがおられますか。
あなたが常にイエス・キリストとともに歩まれるとき、たといあなたの心の中に弱さがあったとしても、主がそれを乗り越えさせてくださいます。