2023年11月26日(日)

=まことの信仰を与えられるために=

<福音書>マタイ253146

再臨の時、イエス様は権威ある者として来られます。その権威をもって、すべての人を右と左に分けられます。

イエス様は言われます、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです』。

ではイエス様は、私たちが天の御国を受け継ぐ者となるために“愛のわざ”が必要だと言われるのでしょうか。

そうです。最後の審判の時に、羊を山羊から分ける決め手になるのは“愛のわざ”です。では、人が救われるのは行いによるのでしょうか。

ここでイエス様は、最後の審判の法廷における証拠を示しておられます。愛のわざは、それを行った者が<正しい人>であることの根拠ではなく証拠です。

愛のわざを行ったから<正しい者>なのではなく、彼らが<正しい者>だから愛のわざを行ったのです。

しかし、その愛のわざを行った羊たちは、意外であると驚いています。それは彼らが知らず知らずにした、彼らの信仰から生じた“良い実”であるからです。

それ故イエス様は、その者の信仰を喜ばれ、他のキリスト者に対して行われた愛の奉仕を「私にしたのです」と言われるのです。

愛のわざは、無意識的なキリストへの奉仕ですあなたと同じ信仰者が困っている時は、イエス様が困っている時です。

ここで主は「キリストが困っている時であっても、あなたはキリストに仕えたか」をあなたに問うておられます。

同じキリスト者が悩んでいる時に、その人に助けの手を差しのべるか、それとも見て見ぬふりをするのかは、イエス・キリストに対する信仰の問題です。

愛を生むまことの信仰と、口先だけの偽りの信仰とは明確に区別されなければなりません

私たちも以前は、イエス様が困っていても見て見ぬふりをする者でした。

そのような私たちが、イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださったことを明確に教えられたとき、私たちに<愛を生み出すまことの信仰>が与えられました。

まことの信仰は、イエス・キリストが、どれ程私をまことの愛を持って愛してくださったかを教えられた者の内にだけ生まれるのです。