2026年04月26日(日)
=あなたの信仰生活が祝福されるために=
【要約】<旧約聖書>創世記24章1~28節
アブラハムにとってイサクは、主からの特別な祝福です。主に祝福された者は主の御心を教えられ、主の栄光を現わします。
だからアブラハムは、イサクの妻を自分の親族の中から選ぼうとしたのです。アブラハムにとっての“祝福”とは、神の約束が現実となっていく歩みそのものです。
アブラハムはイサクの妻を見出すために“もっとも信頼できるしもべ”しもべを遣わしました。アブラハムは、自分のできる最善を尽くそうとしたのです。そのことも“祝福”の一つです。
アブラハムのしもべは、主の導きを願って祈っています。14節『私が娘に、「私に水を飲ませてください」と言い、その娘が「ラクダにも水を飲ませましょう」と言ったなら、その娘こそイサクのために定めておられる人です』と。
このしもべの祈りは「神の御心にかなう祈り」でしょうか。主を試みる祈りではないでしょうか。結論から言えば“主のみこころを確認する祈り”でした。理由は三つあります。
まずしもべは“しるし”を勝手に決めたのではないことです。この祈りのことばは、その時までアブラハムへの主の祝福を見てきた者の「今回も、主は祝福をもって彼に応えてくださる」との確信から出ています。
二つ目は、しもべの祈りは“自分の願望”ではなく“主の契約の成就”を求めるものでした。
そして三つ目の理由は、しもべの祈りは「人格の確認」であったことです。しもべが求めたのは、アブラハムの家にふさわしい“信仰と愛の人格”を持つ女性かどうかの確認でした。
しもべは、神の導きを“人格的な一致”として求めたのです。つまり、しもべの祈りは“自分の願いを押し通す祈り”ではなく“神のご計画に自分を合わせる祈り”でした。
私たちは「主の御心を知りたい」と願っていますか。私の祈りは“自分の願望中心”になっていないか。ひょっとしたら、主がすでに働いておられる“しるし”を、見落としていないか。
では、私たちはどのような姿勢で祈ればよいのでしょうか。しもべの祈りから三つのことを考えます。
一つは、しもべの祈りの根底には「神が導いて来られた歴史」があったことです。私たちも「聖書の約束」、「神がこれまで導いてくださった歩み」を土台にして祈る必要があります。
二つ目は、「自分の願望ではなく、神のご計画を求める」ことです。私たちも、神の栄光と神のご計画を第一に求める祈りをささげるときに、主は道を開いてくださいます。
では私たちが経済的に困っているとき、病で苦しんでいるとき、そこからの開放を求める祈りは誤りなのでしょうか。それについては、ソロモンの祈りがヒントを与えてくれます。神はソロモンに答えられました。
『わたしはあなたに、知恵と判断力を与える。‥その上、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える』と。(Ⅰ列王記3章5~13節)
主は、あなたが必要とするものもご存じです。私たちに求められるのは、主に信頼して祈り続けることではないでしょうか。
三つ目は、「祈りつつ、忠実に歩む」ことです。しもべはただ祈っただけでなく、最後まで忠実に使命を果たしました。それが示すことは「祈りと信仰に基づく忠実な行動が、主の御心を知る道である」ことです。
それで、私たちはそこから「信仰生活の指針」に関わる大切なことを見出します。それは<祝福とは、神の御心を知って歩む者への恵みの賜物>であることです。
つまりリベカとの出会いも、アブラハムの生涯を通して流れていた祝福の延長線上にあるのです。
ですからアブラハムのしもべは、祈りながら歩み、神の導きを求めてイサクの妻リベカを見出しましたが、そのことは<主の祝福の賜物>なのです。
人は、自分一人で信仰を保ち続けられるほど強くありません。信仰生活を生き生きと喜んで過ごすためには、神の励まし(=祝福)がなくてはなりません。
では<祝福が、神の御心を知って歩む者への恵みの賜物>であるなら、私たちはいかにして神のみこころを知ればよいのでしょうか。
イエス・キリストの故に神に感謝します。イエス様は言われます『わたしを見た人は、父を見たのです』。(ヨハネ14章9節)
私たちは“イエス・キリスト”を見ることで“主の御心を知る”ことができます。 イエス・キリストこそ、主の御心の完全な啓示だからです。
ですから一人ひとりが、イエス・キリストを通して主のみこころを知って歩むときに、あなたの生活の中に、また教会の中に“主の祝福”が満ち溢れるのです。