2026年05月03日(日)
=あなたが主に用いられる者とされるために=
【要約】<旧約聖書>創世記25章19~34節
アブラハムの家系には“不妊”が繰り返されます。それは「約束の継承は、神の主権よって成し遂げられる」との神の意志の表われです。
またイサクは、リベカのために祈りましたが、祈りは「約束の成就のための手段」として神が用いられます。 神は、祈りによって私たちが神のご計画に関わることを望んでおられます。
だから神は「祈りなしには、手にすることのできない状況」を用いて、神の主権/神の恵み/神の関与/神との関係性を、私たちに深く悟らせます。それは、神の前に謙虚でなければ主の福音を語ることはできないからです。
さて、リベカはエサウとヤコブを産みました。ある時、ヤコブは「料理を食べさせて欲しい」と願うエサウに“長子の権利”を売るように要求しました。
エサウは“霊的祝福”に無関心であり、一杯の食物のために長子の権利を売ることを誓いました。エサウは、今の満足を永遠の祝福より優先したのです。
またイサクの家庭には争いが絶えませんでした。でも主は、そのような家庭を通して「神の選びとご計画が揺るぎないもの」であることを明らかにされたのです。
イサクの家庭の場合は、神の選びとご計画が「争いという現実」を通して明らかにされていったのです。そのような家庭環境であっても、神はヤコブを選ばれました。神の選びは人間の行いには基づきません。
世の中には「福音宣教においても、どうしてこのようなことが起きるのか」と思うことがいくらでもあります。でも神のご計画は、どのような逆境の中にあっても進められてきたのです。
逆を言えば、どんな争いや迫害/無理解も、神のご計画を止めることはできないのです。
しかし主が争いを通して、ご自身のご計画を進められたとしても、主ご自身がイサクの家庭に争いを持ち込まれたのではありません。争いは、人の罪の結果です。
実に、アブラハム/イサクから始まる家系は<欠けだらけ>でした。モーセは口が重く、ダビデも罪深い者でした。ペテロは臆病者であり、パウロは迫害者でした。
しかし、一人ひとりが<欠けだらけの器>であっても、主はその者をつくり変えて、ご自身の栄光を現すために用いられたのです。これは聖書全体を貫いている“神の主張”です。
そしてその神の主張は、私たちにも当てはめられるのです。私たちも口が重く、罪深く、臆病であり、以前は迫害者であったかもしれません。
しかし私たちは自分の欠けや欠点を恥じる必要はありません。主は、そのような私たちを作り変えて用いようとされています。
私たちクリスチャンは<霊的なアブラハムの子孫>です。 ですから主のアブラハムへの契約は、私たちにも適用されるのです。
そうであるなら、私たちはアブラハム契約の外側ではなく、キリストにあって契約の内側に置かれています。だから、神の祝福は私たちの行いに基づかず、神の誠実さに基づくのです。
ですから私たちがキリストに繋がっている限り、祝福は私たちから離れません。
では私たちがすでに神の祝福の内側にあるのなら、「私たちはこのままでよいのか」との疑問が起こります。
しかし主の契約の祝福は、私たちが「もう変わらなくても良い」という免罪符ではなく、「変えられていく」というプロセスです。
私たちは、神の契約により、私たちの“主にある者”としての身分は確立しています。しかし主の栄光を現すために、私たちはさらに造り変えられねばなりません。
主は完全な器を探しておられるのではありません。ご自身の栄光を現すために、恵みを必要とする器を選び出し、ご自身が望まれるように造り変えて用いようとされるのです。
主は言われます『わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です』。(ヨハネ15章5節)
私たちは、主にあって変えられるためにイエス・キリストにつながって、イエス・キリストから恵みを受け続けなければならないのです。