2024年4月7日(日)

=イエス・キリストをまったく受け入れるために=

<福音書>ヨハネの福音書201931

弟子たちはユダヤ人を恐れて、一つの家で戸口に鍵をかけて震えていました。その恐れに震える弟子たちを憐れんで、復活されたイエス様がご自分の方から家の中に入って来られました。

それで弟子たちは、イエス様の復活を信じて喜び、心は平安で満たされたのです。そして、そのような弟子たちを、主は福音宣教のために全世界に遣わされたのです。

あなたは、死を打ち破って復活されたイエス・キリストに導かれていることを喜んでおられますか。主は、そのようなあなたを、新たな宣教地へ派遣しようとしておられます。

しかしイエス様は、そのように喜ぶ弟子たちを世に派遣する前に、「聖霊を受けなさい」と言われます。でも信仰がなければ、どうして聖霊を受けることができるでしょうか。

信仰とは、イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死を破って復活してくださったことを信じる信仰です。それでトマスの記事が記されています。

イエス様が弟子たちの真中に立たれた時、トマスだけがその場にいませんでした。

弟子たちが「私たちは、復活されたイエス様を見た」と言ってもトマスは、「私は、釘の跡と脇腹に手を入れなければ、決して信じません」と主張した。

私たちは、このトマスの態度から二つのことを教えられます。

一つは、イエス様の完全な死です。トマスは、十字架にはりつけにされたイエス様の苦しみを見ました。トマスにとって、イエス様の死は確実なものであり、よみがえるとはまったく思えなかったのです。

そしてもう一つは、<トマスの疑り深さ>です。トマスは「私は、‥決して信じません」と言いました。それ故トマスは<疑り深いトマス>と呼ばれます。

トマスは、デドモと呼ばれていました。デドモとは双子のことです。ではトマスが双子であるならば、もう一人のトマスがどこかにいるはずです。それはあなたです。

私たちは、トマスのことを<疑り深い>と言いながら、「手に釘の跡を見なければ、脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」というトマスの思いも理解できる。

でもそのようなトマスに、イエス様は個人的に現れてくださった。

一週間後、イエス様は再び弟子たちに現われてくださいました。今度はトマスもいました。イエス様はトマスに個人的に言われます。「わたしの手を見なさい。手を脇腹に入れなさい」と。

トマスは圧倒されたでしょう。トマスは答えます、「私の主、私の神よ」と。この時トマスにとって、イエス様がまさしく個人的に<私の主>であり<私の神>となったのです。

信仰は、その人とイエス様との個人的な関係です。

ここでは、あなたが個人的に復活されたイエス・キリストを「私の主。私の神」と呼べるかが問われています。『見ないで信じる人たちは幸いです』。(29節)

この後弟子たちは、全世界に遣わされてイエス・キリストの福音を伝える者とされるのです。

そして私たちも、心の中に<疑り深いトマス>がいることを覚え、もう一度素直に、「心の扉」を主の前に開け放つことが求められています。

私たちは<疑り深いトマス>にならないで、復活された主の前に心の戸を開いて、信仰の道を歩ませていただきましょう。