2026年04月19日(日)
=あなたが常に神に向かって生きるために=
【要約】<旧約聖書>創世記22章1~14節
神はアブラハムに言われます『あなたのひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、山の上で彼を全焼のささげ物として献げなさい』。
なぜ神はアブラハムにこのような試練を与えられたのか。神は、アブラハムがご自分を恐れているかどうかを確かめるために、このことを命じられたのでしょうか。
神はアブラハムの信仰をご存じなかったのでしょうか。神はご存じでした。知らなかったのはアブラハムの方です。 アブラハムは、悩んだ末に神に従うことを選びました。
アブラハムは、自分がここまでの神への信頼を持っていることを知らなかったのです。この試練は、彼の信仰を神の前に実体化する機会でした。それが一つの理由です。
人は、自分の信仰の深さがどれ程のものなのかを知りません。自分の信仰の強さを教えられた者は、一層神への信頼を強くされ、神に力強く従うことができるのです。
また私たちは「ひとり子をささげる」と言われてイエス様の十字架を思い浮かべます。アブラハムが三日目に息子を取り戻したことは、キリストの三日目の復活を予表しています。
藪に角を引っかけていた雄羊は、全焼のささげ物は「神が備えるもの」との真理を表わしています。
本来、十字架には罪人である私がはりつけにされるべきでしたが、神は私の代わりとしてイエス様を備えてくださったのです。この試練で神は、ご自身の救いのご計画を歴史の中に刻み込まれたのです。これが第二の理由です。
また聖書はしばしば「神の心の痛み」を表現しています。神の心の痛みとは、罪人を愛し続けるために、ご自分のひとり子を差し出す痛みです。神にとってもひとり子をささげることは“痛みの伴う決断”だったのです。
ですから神は、どれほどの愛をもってゴルゴダの丘で御子をささげられるかを、アブラハムの行為を通して“歴史に刻まれた”のです。
イサクをささげるアブラハムの行為がなければ、私たちは御子をささげてくださった神の痛みの深さ/神の愛の大きさが分からないのです。これが第三の理由です。
ですからアブラハムにとっては、この試練は「神の心を知るための道」、「神の愛の深さに参与するための道」でした。
彼はこの経験によって、神が御子をささげる痛みを“ほんの少し”味わいました。神の道を少しでも体験させられる人は幸いです。その体験は、その後の信仰生活の大きな財産となるからです。これが最後の理由です。
神の心の痛みの原因は私の罪にあります。アブラハムがひとり子イサクをささげたことは、神がひとり子イエス様を十字架につけてささげてくださったことの型(タイプ)です。
私たちは「罪の赦しには、ひとの子のいのちが必要になるほど罪は深刻な問題だ」との“十字架の真理”を忘れてはなりません。
そしてもう一つ、私たちが心に刻み付けるべきは、神が、私たちに「主の山に登れ」と言われていることです。
アブラハムにとってモリヤの山に登ることは、辛いことでした。でも彼は登った。恐れよりも、神への信頼が優ったからです。
「主の山に登る」。それは私たちにとっても簡単なことではありません。でも主は、どんな困難な状況にあっても助けを備えてくださいます。
あなたが信仰者として何か働きを始めようとするとき、困難さを覚えられるでしょう。でも、主は必要な助け手を備えてくださる。
例えば、あなたが誰かに福音を伝えようとするとき、主は最も良いみことばや最適な状況を備えてくださいます。
そのような時、アブラハムが主を信頼して歩き出したように、あなたも前を向いて歩んでください。それが「主の山に登る」ことです。主は必ず、必要な助けを備えてくださいます。
へブル書は言います。『恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか』。(へブル4章16節)
そのみことばは、あなたが主に信頼して「主の山に登る」とき、主が必ず助けの御手を伸べてくださることの保証です。
主の備えは山の上にあります。あなたは、主の山に登らなければ“主の備え”を見ることはできません。
あなたには、あなたにしか負えない重荷があります。主は「その重荷を負って、主の山に登りなさい」と言われます。そのとき、大胆に主に信頼して歩んでください。主の山には必ず備えがあります。