「十字架は問う」 =私が主の十字架から教えられるために=

聖書箇所:民数記21章4~9、エペソ2章1~10節、 ヨハネ3章14~21節、詩篇107篇1~3, 17~22

賛 美 歌:71番「とうとき主イエスの」、371番「いつくしみ深い」、331番「罪の深みに」

<福音書>ヨハネの福音書31421

ヨハネ3章16節のみことばは二つのことを語っています。

一つは、「父なる神が世を最大級の愛で愛してくださったこと」です。誰が自分に逆らう者のために、我が子を犠牲にできるでしょうか。それでイエス・キリストの十字架は、あなたに問いかけます。「あなたは、神の愛の重さを知っているか」と。

もう一つは、「人は永遠の滅びか、永遠のいのちかのどちらかであり、その分かれ目はイエス・キリストを信じる信仰であること」です。

すべての人は、キリストのふるいにかけられる。もともとは、すべての者が滅びの世界へと落ちて行くだけだった。そこに“信仰のふるい”が設けられたのは神のあわれみです。

イエス様の本来の姿は“救い主”です。ユダヤ人は律法にしがみつき、努力して救われようとした。結果ふるいの目から漏れていった。

そこで主の十字架は問いかけます。「あなたは、イエス・キリストを通して救われようとしているか」と。

『御子を信じる者はさばかれない』。ここで問われているのは信仰の方向です。

多くの人々は、その心が財産や名誉に向かっている。それらは、永遠の命を保証しない。ダイヤモンドの輝きを愛する者は、救い主の光に背を向ける。

救い主を信じようとしないその姿勢こそ、すでにさばかれている者の姿です。

「私の信仰は、ただイエス・キリストに向かっています」と言える人は幸いです。

イエス・キリストの光は、この世の闇の中でさん然と輝きます。

この世の闇は決して暗くない。夜の繁華街は明るく楽しい。実にイエス・キリストのいない状況が闇なのです。世の人々は光よりもやみを愛します。闇しか見えないからです。

主の十字架は、ここでも問いかけます。「あなたが愛するものは何か。自分の欲を満たしてくれるものか、それとも永遠の命か」

主の十字架は、これからもあなたに問い続けますが、私たちの答えは「わたしはイエス様に信頼いたします」だけです。それが信仰者の恵みなのです。

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