2024年03月17日(日)

=あなたが地上で豊かな実を結ぶために=

<福音書>ヨハネ12章20~33節

過ぎ越しの祭りでエルサレムに来たギリシャ人たちが、イエス様に「弟子としてついて行きたい」と願いました。

でも福音書記者は、このギリシャ人が弟子になるかどうかよりも、ギリシャ人の願いがイエス様に伝えられたことの方が重大なことと考えました。

福音は、全人類に提供されるものであり、ユダヤ人だけのものではありません。それでイエス様は、異邦人であるギリシャ人が「弟子として仕えたい」と願ったことで、

今こそ福音が全人類のために成し遂げられる時だと受け止められ、『人の子が栄光を受ける時が来ました』と言って、ご自分が十字架につく時が来たことを弟子たちに教えられました。

では、イエス様は弟子たちに「どのようにして、神から栄光を受ける」と告げられたのでしょうか。それが一粒の麦のたとえです。

私たちは、この一粒の麦のたとえはイエス様の十字架を表していることはよく知っています。 イエス様が一人の人として十字架で死んでくださった。そこで一粒の麦が地に落ちて死にました。

その一粒の麦の死があったために、全人類の罪が赦され、多くの者に天の御国へ入る道が示され、永遠のいのちの豊かな実が結ばれることになったのです。

では、一粒の麦として地に落ちて死ぬのはイエス様だけなのでしょうか。イエス様は「あなたも一粒の麦となって地に落ちて死になさい」と言っておられます。

25節では<地上のいのち>と<永遠のいのち>が比べられています。人にとって大切なのは、地上のいのちではなく、永遠のいのちを持つかどうかなのです。

ここで言われていることは、有限な<地上のいのち>を<永遠のいのち>よりも大切にする愚かさです。<地上のいのち>と<永遠のいのち>とは、似て非なるものではなく、本質的に異質なものなのです。

その上でイエス様は言われます「一粒の麦として死になさい」と。 クリスチャンが一粒の麦として死ぬことは、主の前に謙虚に生きることです。

また「この世で自分のいのちを憎む者は‥」(25節)と言われます。イエス様から見れば、私たちは憎まなければならないいのちを持っているのです。

私たちが憎むべきいのち。それは、神を神として見ることのない自己中心的な感情です。

神から見れば、人は憎むべきいのちをも手放すことができずにさ迷い生きています。そのような者のために、イエス様は十字架で死んでくださった。

人は、イエス・キリストから目を離さない時に、一粒の麦として死ぬことのできる者されるのです。

イエス様は「わたしがいるところに、わたしに仕える者もいる」(26節)と言われます。

イエス様のおられるところにいることは、永遠のいのちを選び取ることです。このことばでもイエス様は、人が永遠のいのちを選び取るためには、イエス様について行かなければ選び取れないと言っておられます。

私たちは、永遠のいのちを選び取るために、しっかりとイエス様について行くのです。

イエス様が、一粒の麦として死んでくださったので、私たちも一粒の麦として死んで、この世にあっても永遠のいのちに生きる者とされるからです。

そのように生きるクリスチャンの生きざまが<死を超えて生きる>生き方であり、主の前に豊かな実を結ばせていただくのです。