「一粒の麦の死」 =あなたが主にあって自分に死ぬために=

聖書箇所:エレミヤ書31章31~34節、へブル5章5~10節、 ヨハネ12章20~33節、詩篇107篇1~3, 17~22

賛 美 歌:170番「血しおに染みし」、307番「まぶねの中に」、371番「罪の深みに」

<福音書>ヨハネの福音書122033

<地上のいのち>と<永遠のいのち>とは、本質的に異質なものです。

地上で自分のいのちを愛する者は、自分の栄光を追い求める者であり「神の栄光を現わそう」としない。 そこで主は、あなたに問われる。「あなたは、一粒の麦になれるか。あなたは、自分に死ねるか」と。自分に死ぬことは、すべての事を主に委ねること。

あなたは、イエス・キリストが一粒の麦として死んでくださった実として生きている。それはあなたも、一粒の麦として自分に死ぬことを期待されているからです。

クリスチャンが自分に死ぬ。それは、御子イエス・キリストが、私のために死んでくださったくださったことを本気で受け止めるところから始まるのです。

人は、自分のために死んでくださった方がおられることを忘れたとき、自分に死ぬことができなくなる。もしあなたが、自分の信仰生活がいい加減になっていると感じたとき、あなたはイエス・キリストが投じてくださった一粒の麦を踏みにじっている。

そこで改めて大切になってくることは、イエス・キリストが、なぜあなたのために死なれたかをじっと見つめ、わきまえることです。

一粒の麦として、地に落ちて死ぬことが出来るかどうかは、あなたがあなたの近くにおられるイエス・キリストに気がつくかどうかにかかっている。

私たちが憎まなければならない自分のいのちとは、自分で自分のいのちの主人になろうとして生きる時に見えていたいのちです。罪を犯す自分を愛していたら、イエス・キリストの一粒の麦の死を無駄にしてしまう。

イエス様は一粒の麦としての死に、私たちに永遠のいのちへの道が約束されました。

それで私たちがなすべきことは、イエス様のことばを、全存在をもってアーメンと受け止めることです。その時私たちは、自己主張の生き方から<一粒の麦>となって死んでくださったイエス・キリストにすべてを委ねる生き方へと変えられるのです。

その生き方こそが、信仰者の<一粒の麦>としての生き方です。

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