2024年2月25日(日)

=イエス様の苦しみを見つめるために=

<福音書>マルコ83138

31節のことばに、私たちはイエス様の四つの苦しみを見ます。

第一の苦しみは、長老/祭司長/律法学者たちから受ける苦しみです。彼らは、指導者と呼ばれイスラエルに神の家を建て上げる専門家でした。

しかし結果的に、彼らが先頭に立って救い主であるイエス様を十字架につけて殺してしまった。でもイエス様は、そのような彼らをも救いたいと願われたのです。

第二の苦しみは、神のご計画による苦しみです。イエス様は十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

十字架においてイエス様は父なる神に見捨てられたのです。その苦しみも、耐えがたいものでした。

第三の苦しみは、弟子たちの無理解です。弟子たちが想い描いていた救い主の姿は、これからイエス様の身に起きる姿とはかけ離れていました。

弟子たちの間違いは、神のご計画を理解せずに、自分たちのキリスト像にイエス様を当てはめたことでした。弟子たちのメシア像は、世的な欲望を満たす救い主だったのです。

だからペテロは叱られた。「下がれ、サタン」と。父なる神のご計画を妨げる者はサタンです。そのとき、弟子たちはサタンになり下がった。

あなたは神のご計画を妨げることはないでしょうか。そこに、イエス様の四つ目の苦しみが隠れています。

人は物事を決めるときに、損得を考えます。メリットとデメリットを天秤にかけるのです。

主は言われます。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか』。人は何を差し置いても、永遠のいのちを獲得しなければなりません。

そのために、イエス様は十字架の苦しみを受けてくださったのです。しかし何と多くの人が、永遠のいのちと地上の楽しみとを天秤にかけ、地上の楽しみを優先していることでしょうか。

永遠のいのちの賜物を、別のもと比較するとき、そこに偶像礼拝の芽が生じます。私たちは、永遠のいのちの幸いを決して手放してはなりません。

イエス様は、あなたが永遠の平安を得るために、十字架で苦しまれたのです。そこに、私たちの希望があります。それが<苦しみの先にある希望>です。