「神の力、神の知恵」 =あなたが十字架のことばに生きるために=

聖書箇所:出エジプト記20章1~17節、Ⅰコリント1章18~25節、 ヨハネ2章13~22節、詩篇19篇

賛 美 歌:373番「イエスこそわが君」、181番「ここにいます主なる神を」、386番「十字架のもとに」

<使徒書>Ⅰコリント11825

イエス・キリストの十字架の死が、すべての人の罪からの救いにとってなくてはならものです。キリストの十字架は、ユダヤ人には敗北であり、ギリシャ人には愚かなことでした。しかしパウロは、滅びに至る者には愚かとしか思えない福音は、信じる者にとっては<神の力>であると言い切ります。

それはイエス・キリストの福音が、単に信仰者の死後における永遠のいのちへの確かな希望にとどまらず、今生きている私たちの現実の生活の中に働いて、あなたに生きる力を与えるものだからです。福音は将来的な死後の希望ではなく、現実の力、リアリティを持った神の力なのです。

人が罪の滅びから救われるためには知恵は無力です。議論に勝っても人を救いに導くことはできません。

それは神様が、敢えて人には愚かと思えるような方法を用いられたからです。

確かに肉体の目では、十字架上のキリストの姿に、救い主の栄光や救い主の力強さを見ることはできない。しかし、そこにこそ<神の知恵>があったのです。

もし人が、知恵や財力や自分の努力によって救われるのであれば、救いから漏れる人が必ずいる。人は、神様の側から人に告知される特別な啓示だけにより神を知らされるのです。人が神を発見するのではなく、人は神様によって神を知らされるのです

見なければ信じない。納得しなければ信じない。私たちの周りにも、そのような人は多くいる。しかし依然として私たちが伝え得るものは<十字架につけられたキリスト>だけです。

イエス・キリストがあなたに代わって、十字架で罪の赦しの血を流してくださったこと。そこにこそ永遠の未来への希望があるのです。

イエス・キリストの十字架の事実は、たとい人の目に“神の愚かさ”“神の弱さ”のように映ったとしても、それは信じるすべての者に救いを与える<神の知恵>であり<神の力>なのです。