2026年11月01日(日)

=地上でまことに幸いな人とされるために=

【要約】<福音書>マタイ5章1~12節

Ⅰ、イエス様が語る“幸い” : 『心の貧しい者は幸いです』。この“幸い”ということばは、神との関係で使われることばです。

ですからイエス様は「あなたが幸いであるのは、今この状態にあるから幸いなのではなく、わたしがあなたを<幸いな者>として宣言するから幸いなのだ」と言われたのです。

主が「あなたは幸いだ」と宣言されているのなら、あなたの幸いは揺るぐことはありません。幸いは「神の側の働き」であり「人の側が努力して達成するもの」ではないからです。

ここで“心の貧しい者”とは「神の前に心が貧しい者」のことです。そのような者は、主に頼らなければ御心を何一つ実現できないことを知っているため、信仰の暑い者/敬虔な者とされるのです。

つまりイエス様は、「神の前に自分の霊的破産を認める者こそ、神がもっとも近くにおられる“神の民”だ」と語っておられるのです。

またそれに続く『天の御国はその人たちのものだからです』。このことばは現在形で書かれています。イエス様は「主に頼り切る信仰の暑い者は、この地上において、神の御心があなたの内にもたらされる。だからあなたは幸いだ」と言われるのです。

次に『悲しむ者は幸いです』。 この悲しみも、イエス様の悔い改めのメッセージによって、自分の罪の大きさを教えられることにより湧き上がる“心の悲しみ”です。

その罪のための悲しみは、神の悲しみと一致する悲しみです。ですからイエス様が語られた“心の貧しい者”と“悲しむ者”の幸い。この二つの幸いは、人が神の国に入るための“霊的な入口”です。

Ⅱ、イエス様が語るその他の幸い : そしてイエス様は、その他にも六つの幸いを語られました。

『柔和な者は幸いです』、『義に飢え渇く者は幸いです』、『あわれみ深い者は幸いです』、『心のきよい者は幸いです』、『平和をつくる者は幸いです』、『義のために迫害されている者は幸いです』。

これらの六つの幸いは、人が頑張って獲得する徳目ではなく「神の前に心砕かれた者が、神によってイエス様に似る者としてつくり変えられていく姿」です。

イエス様は「幸いな者とは、キリストに似る者であり、キリストはあなたの内にその姿を造り出される」と言っておられます。

八鹿教会には、毎週20人以上のクリスチャンが集っています。その二十数人が集まったときは大きな“御霊の実”を結びます。それによって、ここにおられる一人ひとりが、キリストに似る者としてつくり変えられるのです。

Ⅲ、召天者を振り返って : 今日は、召天者記念礼拝を守っています。20名ほどの方々の遺影を置かせていただきました。この方々も完全な信仰者ではなかったでしょう。

しかし主の前に自分の弱さを知り、主に頼りながら信仰生活を歩まれた方々だと思っております。私はこの中の三人の方とは、信仰者として教会生活をともに過ごさせていただきました。

井上とみ子さんは、実にまっすぐな信仰を持っておられました。みことばを聞く姿勢は、まさに真剣そのものでした。井上とみ子さんは、みことばを聞く姿勢を持った“心のきよい方”でした。

松原良治さんは、主に人生の避けどころを求めた“平和をつくる方”でした。 中村長老は、八鹿教会の一番苦しい時に、主は中村長老ご夫妻を用いて教会を支えてくださいました。中村長老は、静かに誠実に主に仕えた“柔和な方”でした。

Ⅳ、私たちはどのように主に仕えるのか :私たちも、自分の心の貧しさをお教えられ、罪の大きさを悲しむ者とされました。それは私たちが、この地上においても<幸いな者>として過ごすためにです。

「幸い」ということばは、“状態”ではなく神との関係の中で使われることばです。

つまり「多くの財産を持っているから幸い」、「何不自由ない生活を過ごせているから幸い」ではなく、『神との正しい関係の中で生かされているから幸い』なのです。

イエス・キリストが私の罪を赦すために十字架につけられ、血を流してくださった。 そのことを心から信じて、自分の心の貧しさを教えられ、自分の罪深さを悲しむ者とされることが幸いなのです。

そのような幸いな者が<御霊の実>を結び、この世にあってイエス・キリストに似る者として造り変えられるのです。それが人としての幸いな生き方であり、そのために私たちは主に仕え続け、生涯、真に幸いな者へと変えられ続けるのです。

私たちも、天において完全な者とされ、真の幸いを過ごすことを願いつつ、この地上において主に誠実に仕え続けたいと願っております。

『幸いは地上で始まり、天で完成する』のです。