2023年12月24日(日)

=あなたが主にあって強くされるために=

<福音書>ルカの福音書12638, 2 17, 2章8~20

2023年クリスマス。おめでとうございます。

八鹿教会では、昨年のクリスマスに続き、2023年もクリスマス礼拝の中で洗礼式を執り行うことができますこと、大変うれしく思っています。大谷和子さんの洗礼式を行います。

洗礼を受けることには、二つの要素があります。一つは、「自分が神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改めること」です。

そしてもう一つは、「イエス様が、自分の罪を赦すために十字架について血を流してくださったことを知ること」です。そしてそのことが、「イエス様が、私の罪からの救い主である」と信じることなのです。

今日、大谷和子さんが、イエス様をご自分の罪からの救い主として信じて洗礼を受けられることは、八鹿教会にとって大きな喜びです。また天においても大きな喜びがわき起こるのです。

ルカの福音書15章にこのように書かれています。『一人の罪人が悔い改めるなら、…大きな喜びが天にあるのです』。(ルカ15章7節)

何故、天の御国でそれほど大きな喜びがわき起こるのか。それは、「人が自分の罪を認め、イエス様が罪からの救い主と信じること」が、父なる神の御心であり、子なる神イエス様も、そのために地上に降りて来られたからです。

イエス様は言われました。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです』と。(ルカ5章32節)

そのイエス・キリストのご降誕に感謝するときがクリスマスです。

先ほど、“賛美と聖書のみことば”によってクリスマスの出来事を振り返りました。

日本では、クリスマスはイエス・キリストとは関係のないものとして扱われています。完全に商業化されています。

サンタクロースは出て来てもイエス・キリストは見当たりません。私たちは、そのことをもっと嘆かなければなりません。

それは、イエス様がご自身をまったく無視すような人の罪をも赦すために、地上に降りて来られ十字架で死んでくださったことを、私たちが知っているからです。

罪とは、人を神から引き離すものです。この世は、人に罪を犯させるもので満ちています。金銭に対する執着、名誉に対する執着。

お金も名誉もそれ自体は悪いものではありませんが、サタンはそれらを、人の心を神から引き離す道具として用いることが多いのです。世の誘惑です。人類最初の人アダムとエバは、サタンの誘惑に負けました。

そしてそれ以降のすべての人が、その罪を引き継いだのです。 それ故すべての人は、神の前に罪があるゆえに、そのままでは天の御国に入ることのできない“弱き者”となってしまいました。

そのためイエス様は、その<弱き者の救い主>として地上に来てくださったのです。

ただ残念なことに、ほとんどの日本の方々は、自分が神の前に弱き者(罪人)であることを知りません。だからイエス様が、自分の罪からの救い主キリストであることが分からないのです。

そのような人は未来(死後)に希望を持つことはできません。しかし自分が、神の前に弱い者であると知っている者は、未来に希望を持つのです。そして、その希望は決して失望に終わることはありません

さて、救い主キリストが世に来られることは、昔から旧約聖書に預言されていました。

先ほど、最初に読んでいただいたヨブ記のみことばは、このように言っています。『私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを』。(ヨブ記19章25節)

ヨブは裕福な者でしたが、一日のうちにすべての財産を失い、また自分自身は頭の先から足の先までひどい出来物ができて悩まされている状態で、救い主到来の希望を持ち続けました。

また預言者イザヤは、闇の中を歩むような暗い社会に生きている人々が希望の光を見ること。その希望の光は、一人の男の子として現れることを預言しました。

そして、預言者ミカは、救い主が生まれる町はエルサレムではなく、ダビデの町と呼ばれる小さな村ベツレヘムであることを預言したのです。

その預言の通りに、イエス様はまるで世の中の弱い者を代表するかのように、この世に降りて来てくださいました。

イエス様の母として選ばれたのはマリアです。マリアは、み使いガブリエルから受胎告知を受けたときは15歳ぐらいだったと言われています。マリアはガリラヤのナザレの村に住む一人の少女にすぎません。

そのときマリアは戸惑い恐れました。マリアはヨセフと結婚することになっていましたが、まだ二人の夫婦生活は始まっておりません。

そのような状況で、マリアが「私は聖霊によって身ごもりました」と言っても誰も信用しません。マリアを見つめる世間の目は冷たい。マリアは、これから自分の身に何が起こるのか容易に想像できました。

律法の定めによって殺される可能性もあったのです。マリアは、社会的にはまったく力のない弱い者なのです。

そのような状況の中でマリアは御使いに答えました。「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」。このことばは重い。

“はしため”とは奴隷です。「私はあなたの女奴隷です。私はこの身をご主人であるあなたにお任せします。あなたのお考えのようになさってください」。マリアはそのように応えたのです。

何故マリアは、このことばを言うことができたのか。彼女が、畏敬の念を持って神を畏れる者だったからです。神を畏れる者は、神に絶対的な信頼を寄せるのです。

人は弱い者であっても、神の前に誠実な者でなければなりません。神は、救い主キリストの母として、そのような女性を選ばれたのです。

さて、婚約者のヨセフも戸惑いました。ヨセフもナザレの村の一介の大工であり、社会的な立場のある者ではありません。そのヨセフの戸惑いの最も大きな要因は、マリアのお腹の中の赤ちゃんの父親は自分ではないことがハッキリしていることです。

マタイの福音書1章19節に「夫のヨセフは正しい人で、…」と書かれています。聖書が語る“正しい人”とは、律法をきちんと守って神を正しく畏れる者のことです。

ヨセフは神を畏れる者として、そのようなマリアを妻として迎え入れることはできなかったのです。でも神はそのように戸惑うヨセフをあわれんでくださり、夢によって「マリアが神の聖霊によって身ごもった」ことを教えてくださいました。

しかし、ヨセフの戸惑いは解消されても、ヨセフとマリアの夫婦が社会の荒波にもまれる弱い立場の者であることは変わりません。

マリアの出産が近づいた時、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスからでました。この勅令は、住民から税金を確実に取り立てるためのものです。

世の権力者は、弱い者の立場を考慮することはいたしません。 そのためヨセフは、お腹の大きなマリアを連れて、ガリラヤのナザレの村から100Km以上離れたベツレヘムまで移動しなければならなくなったのです。これは危険な旅です。

ヨセフとマリアのベツレヘムへの旅。そこにあるのは、世の権力者に振り回される徹底的に弱い者の姿です。その上、ベツレヘムに到着しても、同じような理由で戻って来た人たちで宿屋はどこも一杯で、彼らの泊る場所は家畜小屋しか残されていなかった。

しかし、どのような状況であっても、神を畏れる者の上に注がれる神の守りは、微動だにいたしません。マリアは、その家畜小屋の中で救い主イエスを出産しました。そうして、すべての人の罪からの救い主イエス様は、飼葉桶の中に寝かされたのです。

神であるイエス・キリストは、何という弱い立場で世に来られたのでしょうか。2000年前であっても、女性が子どもを産むときはそれなりの場所が用意されます。

何故そんなみじめな状況で、救い主が生まれなければならなかったのか。それは、世の弱い者たちに、希望の光を投げかけるためです

それで、ベツレヘムの家畜小屋で救い主キリストがお生まれになった知らせを真っ先に伝えられたのは、村の郊外で羊を飼っていた羊飼いたちでした。羊飼いたちも、社会の底辺を構成する弱い立場の人たちです。

救い主キリストの誕生は、まずそのような貧しい人々の中で起こされたのです。それは、神がそのような弱い立場の人々を含め、すべての人の<心の暗闇を照らす確かな光>としてイエス様を世に遣わしてくださったからです。

今日はイエス・キリストの誕生を、社会の弱い立場の人たちに焦点を当てて振り返りました。

実を申しますと、この世の社会では、弱い立場の者も強い立場の者もおりますが、神の前には弱い者しかいないのです。神の前に自分を誇れるものは誰もいないからです

でもすべての人が、自分は神の前に弱い者だと気が付いているかと言えばそうではありません。

一世紀の大伝道者にパウロという人がおりますが、パウロはコリントという町の教会に宛てた手紙の中でこのように書いています。『神は、…強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました』。(Ⅰコリント1章27節)

この強い者/弱い者とは、神の前に傲慢な者、神の前に謙虚な者と言い換えることができます。パウロは、このことばで「あなたは神の前に謙虚でありなさい」と言っています。

そして、あなたが神の前に謙虚な者であるために、すべての貧しさの中に弱い者として地上に降りて来てくださったのです。イエス様が、すべての権限を持っておられる方であるのにです。

そして、イエス様は生涯を通して弱い者の姿を貫かれ、最後はゴルゴダの丘で囚人とともに十字架について死んでくださったのです。あなたの罪を赦すために、イエス・キリストは十字架で死ななければならなかったのです。

なぜなら、あなたが罪に対して徹底的に弱いからです。そのようにイエス様は、あなたを罪の滅びから救い出すために、徹底的に弱い者となってくださったのです。

またそれは、神の前に弱い私たちが、イエス・キリストとともにあって強い者とされるためにです。

もう40年程前でしょうか。私が信仰を持って間もなくでしたが、クリスマスの頃、教会の青年会の仲間とともに、近くの老人ホームに慰問に行ったことがございました。ホームに着くと、すでに皆さん席についておられました。

私たちは、小さな劇をすることにしておりましたので、その準備のために少し時間が必要でした。間が空いてしまいました。それでその間を埋めるために、急遽、私が短い話をすることになりました。

具体的にどんな話をしたのかよく覚えていないのですが、「イエス・キリストを信じて死ぬ者は天国に入れられ、信じないで死ぬ者は永遠の滅びに入れられる」ことを話したと思います。クリスマスの話としては、ちょっと場違いな話でした。

でも、すべてのプログラムが終わって帰り支度をしていますと、ホームのスタッフの方に声をかけられました。「あちらのご老人の方が、あの話をもう少し詳しく聞きたいと言われています」と。

それでまた、そのご老人のところに行き死後の希望について話をさせていただきました。ご老人にとって、死は目の前の問題であり切実な問題です。

人はいつか間違いなく死にますが、その時に死後の解決を持っていない者にとっては、死ぬことは不安でしかないのです。

先ほど話しましたように、すべての人は弱い者です。この弱い者とは、死に対して無力であり、死後の希望を持っていない人のことです。

しかしその弱い者であっても、イエス・キリストを罪からの救い主と信じた時に強い者とされるのです。その者は、死後の永遠のいのちが保証されるからです。死後の不安がなくなるのです。

イエス様は、そのようなすべての弱い者が、主にあって強い者とされるために地上に降りて来てくださいました。そのことを感謝するときがクリスマスです。

ここにおられる多くの方々は、すでにイエス・キリストを罪からの救い主と信じておられる方々ですが、なお一層主に信頼して更に敬虔な信仰者とされますように。

まだイエス様を信じておられない方々は、早くイエス・キリストを信じる者とされますように願っております。

このクリスマスの時、すべての方々が、私を強くしてくださったイエス・キリストに感謝する時として過ごされますようにお勧めいたします。

それが、弱い者である私たちのクリスマスの過ごし方なのです。皆様方の上に、主の祝福が豊かでありますように。

お祈りをいたします。