<讃美歌>讃美歌386番「十字架のもとに」

<聖書日課>マタイ23章37~24章14節「魂のやすらぐ処」

「ああ、エルサレム、エルサレム」。イエス様は嘆いておられる。

人々は、神様から遣わされた預言者たちを迫害して死に至らしめてしまった。そして今、神の一人子をも十字架に付けて殺そうとしている人々の不幸を見て嘆いておられます。

鳥のひなにとって、最も安全な場所が親鳥の翼の下であるように、エルサレムの人々にとって、もっとも安全な場所はイエス様の足もとでした。

しかし、人々はその場を好まなかった。それどころか、自分たちを守ろうとしてくださったイエス様をかえって迫害し、殺そうとたくらんでいる。

何故、エルサレムの人々はイエス様の足もとを嫌ったのでしょうか。惑わされたからです。

この世には、私たちを惑わすものは多くあります。惑わされるとは、神様が見えなくなることです。

この世には、人を惑わすものが何と多くあることでしょうか。富、名誉、社会的地位、自己満足、そして偶像礼拝。数え上げればきりがありません。

考えてみれば、私たちは非常に不安定で危険な場所で生活しているのではないでしょうか。 そのような中にあって、私たち信仰者も惑わされずにいるためには、主の守りの中に居なければなりません。

ヘロデ王が修復したエルサレム神殿。それは大変立派な建物でした。永遠に立ち続けると思われていたでしょう。

しかしイエス様は、そのエルサレム神殿も「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と言われる。

永遠に立ち続けると思われたエルサレム神殿も、徹底的に破壊されるのです。破壊されるエルサレム神殿。それは、惑わされた私たちの心ではないでしょうか。

エルサレムの人たちは、救い主を待ち望んでいましたが、律法にしがみつきイエス・キリストにより頼もうとはしませんでした。その姿は、まさしくエルサレム神殿の建物そのものにより頼んでいる空しい姿です。

神殿は神を礼拝する場所であるのに、人々は神を見ずに建物のすばらしさを見て惑わされたのです。

私たちは、何かに惑わされていないでしょうか。心の中を見直す必要はないでしょうか。惑わされた心は、最後には徹底的に破壊されるのです。

私たちは、めんどりが雛を翼の下に集めるように、私たちを集めようとしてくださるイエス様のもとに集い、そこに魂のやすらぎの場を見い出さなければなりません。

その時に私たちは『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』(23章39節)と心から叫ぶことができるのです。

アーメン

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