<讃美歌>讃美歌371番「いつくしみ深い」 

<聖書日課>マタイ12章1~8節「重い荷と軽い荷」

イエス様は、この箇所の直前(11章30)で「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました。

当時の社会は、律法を厳格に守ることが要求されました。聖書に規定されている内容以外にも、ユダヤ人たちは幾つもの決まり事を作り、それを守るように人々に強制していたのです。

それで人々は生きづらい生活を強いられていました。イエス様は、そのような律法主義の時代は過ぎ去ったことをここで教えておられます。

ある時、イエス様の弟子たちは空腹になり、麦畑で穂を摘んで食べました。ユダヤ人は、それは律法を守らないことと非難しました。

ユダヤ人の安息日律法によれば、安息日に働くことはできません。彼らの律法によれば、

・麦の穂を摘むことは借り入れをすること。 ・麦の穂をもんだことは脱穀したこと。・もみ殻を除いたことは吹きわけたこと  であり、仕事をしたことになるのです。

そのような律法主義的な考え方にイエス様は反論されました。

ダビデと彼の部下が、空腹のときに祭司以外は食べてはいけないパンを食べたことは、人間の必要が儀式的制約に優先することを教えています。

パリサイ人たちは、旧約聖書に書かれていることをよく知っていながら、そこに示されている霊的原則に盲目だったのです。

また祭司たちは、安息日であってもささげられたいけにえの動物や穀物を処理するために働いています。それでイエス様は、神への礼拝が安息日律法に優先することを教えられました。

それを前提として、イエス様はご自分が宮よりも大きなものであると宣言されています。それは、弟子たちがイエス様に仕えるために、安息日にわざを行ってもよいと言われたのです。

これらのことでイエス様がパリサイ人に言われたことは、まことに神が望まれるのは、パリサイ人のような外見的行為(見せかけのいけにえ)ではなく、ご自身のように、あわれみに生き神に対して忠実に生きることです。

「律法はもうどうでもよい」と言うものではありませんが、イエス様に仕えることが、すべてに優先することを覚えて、日々の信仰生活を過ごさなければなりません。

またそのような生活は、私たちにとって重荷とはなりません。なぜなら、イエス様がすでに十字架において私の重荷を負ってくださったからです。

主に感謝して、

アーメン

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