2023年7月12日(水)

<讃美歌>讃美歌392番「主よわが心を」

<聖書日課>ヨハネ13章1~17節「足を洗い合う」

ヨハネの福音書13~17章は、十字架を翌日に控えたイエス様の惜別説教が記されています。

イエス様と12弟子たちは、とある家の二階に集まりました。弟子たちは、イエス様とともに過ぎ越しの食事を食べるために集まったと思っています。

確かに弟子たちは、ここで過ぎ越しの食事を食べたでしょう。その食事は、彼らの肉体の糧となりました。

しかし、イエス様はここで弟子たちに霊的な過ぎ越しの食事を与えられました。その霊的な食物は、弟子たちの信仰の糧となったのです。

その最初の食物は、イエス様が弟子の足を洗われたことです。弟子であっても主人の足を洗いません。足を洗うことは、奴隷の仕事です。

でもここでは、イエス様が弟子たちの足を洗われたのです。それもすべての弟子の足を洗われたのです。

弟子の中で、ペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言っていますが、ごく一般的な感覚であり、イエス様への尊敬の念から出てきたことばとして当然のことばです。

しかしイエス様は、そのペテロに言われます。「わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と。

イエス様は、「この行いはあなたがたへの模範です」(15節)と言われています。

人が他の人の足を洗うことは、敬虔な思いで他の人に仕えること以上に屈辱的なことです。

イエス様は「わたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と言われました。

そのことは、「互いに愛し合うべきです」(34節)と言われたのです。愛には屈辱が伴うこともあります。

しかし、イエス様が私のために弟子の足を洗われたので、私も人を愛することができるのです。

そして私たちは、一人ひとり足を洗い合い、互いに愛し合うことによって、イエス様との関係を保つことができるのです。

教会に集うすべての者が、互いの重荷を負い合い、足を洗い合うことによって、教会はイエス様とより強固に結び合わされるのです。

八鹿教会が、そのような互いの足を洗い合う教会として、これからも主の栄光を現わし続けたいと願っています。

アーメン

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