2023年9月27日(水)

<讃美歌>讃美歌374番「たよりまつる」

 <聖書日課>マタイ18章1~5節「謙虚さを教えられる」

弟子たちは「自分たちが天の御国に入った時、誰が一番偉い地位に就くか」と言い争っていました。一人ひとりが、「自分の方があなたより偉い」と主張するところに、平安はありません。

ここで、私たちが注目しなければならないことは、弟子たちは天の御国に入った後のことを話題にしているのに、イエス様は、入る前のことを語っておられます。

「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」。(3節)  このイエス様のことばは、私たち地上の教会を形成する者たちへのことばです。

”向きを変える” とは、心の向きを変えることです。自分は何を大切なこととして生きるのかが問われているのです。

人は、この世の繁栄を求めます。それはそれで悪い事ではありません。しかし、地上のことに目を奪われてしまい、神の存在がぼやけてしまうようになるなら、それは悪い事です。

往々にして、人は地上の繁栄を求める時、神のことが見えなくなるのです。 だから、イエス様は「子どものようになりなさい」と言われるのです。

子どもは、地上の栄誉を求めません。子どもは、人の言うことを素直に聞きます。子どもは、他の者の上になろうとはしません。

イエス様はここで、「あなたは神に対して子どものようでありなさい」と言われているのです。それは、神の言われることに素直に従うこと。神の前にへりくだることです。

そのような手本として、イエス様は一人の子どもを弟子たちの真中に立たせて話をされたのです。

しかし私たちは、神の前にへりくだって、神に素直に従い、謙虚な者としての手本をイエス様ご自身の内に見い出します。

イエス様は、神そのものである方なのに、謙虚になられ、この権威にも従われ、最後は十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2章8節)

私たちは、そのようなイエス様の姿から、神の前の謙虚さを教えられるのです。そして、そのような謙虚さを教えられたものが、天の御国で偉いものとされるのです。

八鹿教会が、これからも神の前に謙虚な者の集まりとして、主に仕えられますように願っています。

アーメン