<讃美歌>讃美歌410番「救いのぬし 主よ」

<聖書日課>マタイ21章28~32節「義の道を歩む」

イエス様は、ここで祭司長や民の長老たちに教えられています。彼らは、信仰生活において人々を指導する立場にありながら、来るべき救い主を知ることはなく、イエス様の教えに反対していた者たちです。

そのような彼らに、イエス様はある兄弟(兄と弟)のたとえ話をされました。このたとえ話に登場するのは三人です。父親、兄、弟。もちろん父親は、父なる神様。

兄は、祭司長や長老であり指導的立場にある者。弟は、取税人や遊女であり一般に罪人と呼ばれている人たちのことです。

父は兄息子に言っています。「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と。兄は「行きます」と答えますが、何が理由かわかりませんが行きませんでした。

祭司長や長老たちは、神様のために真っ先に働くべき者たちです。

彼らは、普段「私は神様のために一所懸命働いています」と見せかけておきながら、いざ働くべき時が来ると、「働きたくない」と言って責任を放棄してしまいました。

それは、目の前に救い主キリストを見ながら、キリストに従おうとしない姿勢を指摘されています。

弟息子は、兄から「お前は罪びとだ」と言われていたのでしょう。父親にも反抗的な生活をしていました。

それで父親から「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と言われても「行きたくない」と反抗します。しかし、彼は自分の反抗的な罪を悔い改め、反省してぶどう園へ行って働きました。

神は、弟息子を求めておられます。兄息子にたとえられた祭司長や長老たちの間違っていたところは、自分たちには、悔い改めるべき罪はないと思い込んでいたことです。

だから、バプテスマのヨハネが「悔い改めよ。天の御国が近づいたから」と言っても、悔い改めることをせず、救い主イエス・キリストを目の前にしても、反対するばかりで一緒に神の国を伝えようとはしなかったのです。

私たちは、兄息子の態度を見て「彼は非常に高慢な人間だ」と言います。自分の罪を認めないからです。

しかしながら、私たちは兄息子を批判できるような者なのでしょうか。私たちも、弟息子のように罪人なのです。

私たちは弟息子です。それは、自分の罪を知っているからです。その罪とは、神に反対する性質です。私たちはクリスチャンであっても罪ある者です。絶えず、神様が遣わされた義の道を歩まなければなりません。

その義の道とは、イエス様ご自身です。そして義の道を歩むとは、イエス様に従い続けることです。

聖書は言います。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい』(へブル12章2節)  今日から、常にイエス様から目を離さないようにしましょう。

そうする時に、主はあなたを、この世のぶどう園で働かせてくださいます。

アーメン

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