2023年10月25日(水)

<讃美歌>讃美歌392番「主よ、わが心を」

<聖書日課>マタイ17章22~27節「権利の主張と愛の配慮」

今イエス様はガリラヤに帰って来られました。この何日か前に、イエス様はペテロとヤコブとヨハネだけを伴って、北部の高い山に登られ、御姿が変貌してモーセとエリヤと話をされる奇跡を見せられました。

それは、イエス様が聖書の預言された救い主メシヤであることの証明でした。

そして、ガリラヤに戻ってきたところで、イエス様は「人の子は殺されるが、三日目によみがえる」ことを告げられました。

それらのことは、イエス様がまことの救い主メシヤであることと、メシヤであるがゆえの苦しみを弟子たちに予告されたのです。

そこに私たちは、イエス様のキリストとしての主張と弟子たちへの愛の配慮を見ます。

さてイエス様が、カペナウムの町に来られた時、神殿税を集める者がペテロに言いました。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」と。ペテロはとっさに「納めます」と答えます。

神殿税とは、エルサレム神殿の維持のために人々が納める税金です。ペテロは「納めません」と答えると、イエス様の名誉にかかわると判断したのでしょう。

しかしペテロが家に入った時、すべてを知っておられるイエス様がペテロに言われます。

「王は、自分の子たちからは税金を集めないように、真の神の子であるわたしも、神殿税は納める義務はありません」と。

でもイエス様は、人々をつまずかせないために、湖でとれた魚の口から見つかる銀貨を神殿税として納めるようにペテロに命じられました。

ここに、イエス様の神の子としての自己主張と人々への愛の配慮を見ることができます。

私たちも地上の社会で生活する中で、クリスチャンとしての主張と他者への愛の配慮を考えなければなりません。

私たちが、教会でみことばによって励まされ、生活の場へ派遣されているのは、人々にイエス・キリストを知らせるためです。

そこでは、クリスチャンであることを主張しなければならない時と、相手がつまずかないために、信仰者として愛の配慮を働かせなければならない時とがあります。

そのような権利の主張と配慮は、みことばによって教えられなければなりません。

私たちが、イエス様の弟子としてこの世で福音宣教を続けるために、みことばから知恵が与えられますように祈り続けましょう。

アーメン