2024年02月28日(水)

<讃美歌>讃美歌346番「はかりも知られぬ」

<聖書日課>ヨハネ12章36~43節「教会に集う者に与えられるチャレンジ」

教会にはいろいろな人々が集まって来られます。その人々を大きく二つに分けると、「信仰者と求道者」に分けることができます。

教会は、求道者の方々に様々な配慮をして、早くイエス・キリストを信じていただきたいと願っています。 また、信仰者の方々へもいろいろな配慮をして、より優れた信仰者となっていただきたいと願っています。

そのような願いを持ちながら、今回与えられた箇所を読み直しますと、私たちは、「教会で聖書のみことばを聞く人々への二種類のチャレンジ」に気が付きます。

一つ目のチャレンジは、まだ信仰を持っていない方々へのチャレンジです。

その方々に向かってイエス様は、「光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」と言われます。

求道者の方々は、自分が教会に来てみことばを聞く機会が与えられている間に、イエス・キリストを罪からの救い主として信じなければなりません。

ずるずると、何かと心配事や疑問ばかりを理由に挙げて、決心を先送りにしていては神の祝福をつかみ損なうのです。教会は、そのような方々が信仰へと導かれるために、配慮と祈りをもって対応しなければなりません。

二つ目のチャレンジは、信仰をもった人が信仰者として成長して、主の証人となるためのチャレンジです。 イエス様の話を聞いた議員の何人かはイエス様を信じました。(42節)

しかし彼らは、信仰を公に告白しませんでした。 「彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」(43節)からです。

すでに信仰を持った私たちも、常に神の栄光を現わすことを第一しなければなりません。もし信仰者であっても、この世のことに心を奪われていると、せっかく手にした信仰を失ってしまいます。

信仰を持った議員たちも、人からの栄誉を愛したために(43節)、イエス様の十字架刑に異議を唱えることができなかったのです。

人は「信仰を持てばそれでよい」というものではありません。神の栄光を現わすために、私たちは信仰者とされました。

教会は、その中にいる信仰者が、信仰者として成長するために、互いに配慮して祈り合う責任を神に負っています。

八鹿教会にも、以上の二つのチャレンジが与えられています。

求道者の方々が、信仰へと導かれるために、信仰者とされた私たちが、更なる信仰の高みへと導かれるために、教会は常に、みことばに生かされる者の集まりとして、成長することが期待されています。

今年ももう二か月が過ぎましたが、2024年が八鹿教会にとって、主のチャレンジに正しく応える年として導かれますように、心より願っております。

アーメン