2024年04月24日(水)

<讃美歌>讃美歌451番「立てよつわもの」

<聖書日課>マルコ14章26~31節「弱い者と強い者」

人の決心とは、何と当てにならないものでしょうか。 人とは、自分が弱い者であることを知らない者なのでしょうか。 12弟子たちも、それについてはまったく例外ではありませんでした。

イエス様は、弟子たちとの最後の晩餐を終えて、オリーブ山へ行かれました。そこは、イエス様がいつも祈っておられた場所です。

イエス様も大いなる決心をして、その場所に向かわれました。そこで、イスカリオテ・ユダが祭司長やローマ兵を連れて来て、ご自分が逮捕され、その後十字架で付けられることを知っておられたからです。

そのようなイエス様の決意を知らない弟子たちは、イエス様が「あなたがたはみな、つまずきます」と言われた時に、そのことばを否定しました。

特にペテロは、29節で「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と強く否定しています。

ペテロばかりではありません、他の弟子たちも同じことを言ったのです。

私たちは、この後ペテロや他の弟子たちが、どのような行動をとったかよく知っています。イエス様が逮捕された時に、イエス様一人を残して逃げました。

特にペテロは、イエス様が裁判の席で、冒瀆されている時に「私はイエスなんか知らない」と三度も否定しました。

私たちは、このようなペテロのことを「自分知らずだ」とか「うぬぼれている」と言って非難します。

しかしながら私たちは「あなたもペテロと同じ立場にあったら、同じことをしたのでないですか」と言われれば、それもまた否定することはできません。私たちも自分の弱さを知っているからです。

ではイエス様は何故、弟子たちに自分の弱さを体験させられたのでしょうか。

人は、自分が弱い者であることを徹底的に教えられなければ強くなれないからです。人は、自分では何もできないことを知って、初めて神に頼ることを教えられるのです。

福音宣教は神のわざです。神の助けがあって、福音宣教は進められるのです。

八鹿教会に集う私たちも、更に神に頼ることを教えられ、強くされて神のご用に足る者とされ、遣わされた所でイエス・キリストの福音を宣べ伝える者とされたいと願っております。

今日からの皆様方の信仰生活の上に、主の祝福が豊かでありますように、

感謝して、

アーメン