<讃美歌>讃美歌412番「父の神、このわれを」

<聖書日課>ルカ6章6~11節「安息日の”善”」

この箇所もイエス様が安息日に癒しの奇蹟を行い、パリサイ人や律法学者と対立する記事です。

イエス様は、パリサイ人/律法学者を嫌っておられたのでしょうか。いや、愛しておられました。愛しておられるが故に、わざわざ安息日に彼らの目の前で、病人を癒されたのです。

では、安息日とはどのような日なのでしょうか。出エジプト記20章には、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。‥あなたはどんな仕事もしてはならない」。と記されています。

では仕事さえしなければ、安息日を聖としたことになるのでしょうか。

イエス様は、9節で「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか」と問われます。それで、ここで問題となって来るのは、”善を行う”とは何をすることなのかです。

エゼキエル書に次のようなみことばがあります。

『わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別するであることを彼らが知るようにした』(エゼキエル書20章12節)

ここで神様が安息日を定められたのは、人々が神様を””として知るためだと言われています。

イエス様が、安息日に会堂で右手のなえた人を癒されたのは、パリサイ人や律法学者およびそこにいたすべての人が、イエス様がキリストであり、であることを知るためだったのです。

それが”善”なることなのです。残念ながらパリサイ人/律法学者は、イエス様がであることを知るどころか、すっかり分別を失って、イエスをどうしてやろうかと話し合いました。

では私たちはどうでしょうか? 私たちはパリサイ人/律法学者は悪い者と理解しています。では私たちは、彼らよりもどれ程 ”善なる者” なのでしょうか。

ここでイエス様は私たちに、「あなたは、わたしがであることをどれほど意識して安息日を過ごしているか」と問うておられます。

今の社会は、一世紀の時代とは比べ物にならない程多様化しています。日曜日の礼拝を守れない人も数多くおられます。

しかし、そのような社会にあるからこそ、尚のこと”善とは何か”、”私が安息日を聖なる日とする”とは、どのように振舞うことなのか、私たちは自分自身に問わなければなりません。

今週のどこかでも、あなたがイエス様が言われる「善を行うこと」とは何か? ご自身に問い直されることをお勧めします。

皆様方の上に、主の祝福が豊かでありますように。

アーメン

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