<讃美歌>讃美歌374番「頼りまつる わが主よ」
<聖書日課>Ⅱ列王記18章19~25節 & 19章1~7節
信仰に生きることは、忍耐を学ぶことを求めます。祈りは必ずしも私たちの思ったときに、思ったようには答えられないからです。
紀元前722年、アッシリヤがイスラエル王国を滅ぼしました。イスラエルの王が偶像礼拝を続けたからです。アッシリヤの王セナケリブはその勢いで、ユダ王国に侵入しエルサレムを包囲しました。
アッシリヤは、エルサレムの王ヒゼキヤに降伏することを求めます。
アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、「ヒゼキヤは、主により頼んでも、その神は我々からお前えたちを救い出すことはできない」と神様を冒涜して降伏を迫ります。
ヒゼキヤには、信仰と忍耐が求められました。エルサレムには、食料もほとんどなくなり、また武力ではアッシリヤにまったくかなわなかったのです。
ヒゼキヤは、預言者イザヤに遣いを送り、神の声を求めます。ヒゼキヤは、自分の信じている神様に頼ったのです。
その結果、神様はご自分の遣いを送られ、アッシリヤ軍は一夜にして185,000人が滅ぼされ、セナケリブは自国へと逃げ帰ります。(35節)
神様はずっと見ておられました。ラブ・シャケの冒涜のことば、ヒゼキヤ王の苦悶の声、イザヤの祈りの声を聞いておられました。
ヒゼキヤ王には、数か月に亘り、真の神への信仰と忍耐が求められました。苦しかったに違いないのです。 私たちにも、信仰と忍耐が求められる時があります。
祈っても祈っても、事態は改善しない。「本当に神様は聞いて下さっているのだろうか」と弱音を吐いてしまう時があります。
主は聞いておられます。「わたしを呼べ」(エレミヤ33:3)と言われた方は、あなたの祈りを必ず聞いておられます。
ヒゼキヤは、神様との距離が大変近かったのです。どんなに苦しくても、信仰を失うことはありませんでした。ヒゼキヤは、神様をよく知っていました。だから、イザヤの所に遣いを送ったのです。
あなたは、どのように真の神様を知っておられますか。どれほど近くに神様を感じておられますか。
パウロは、もうすぐ処刑されると知った時に、弟子のテモテにこのように言っています。
「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださる ことができると確信している」。(Ⅱテモテ1:12)
パウロの生涯も、信仰と忍耐の繰り返しでした。それ故、主は私たちにも”信仰と忍耐”を求められる時があります。
それは、あなたが一層、神様の愛の深さを知るためであり、あなたがイエス・キリストともっと深い関係に入るためです。
その時、あなたはヒゼキヤのように、どんなに他者から非難されても、主に頼る者とされ、パウロのように「私は、自分の信じて来た方をよく知っており」と叫ぶことができるのです。
あなたが、常にイエス・キリストを見続けて日々を過ごされますように願っています。
アーメン
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