2024年3月27日(水)

<讃美歌>讃美歌416番「わがゆく道 いついかに」

<聖書日課>ヨハネ13章21~32節「主の期待に応える」

ヨハネ13章から17章までは、最後の晩餐の席でのイエス様の告別説教が記されています。その冒頭でイエス様は非常にショッキングなことを弟子たちに伝えられました。

「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります」。弟子たちはこのことばで心を騒がせたでしょう。

でもイエス様は、もっと大きな心の動揺を覚えられました。 21節で『イエスは、‥心が騒いだ』と書かれています。この心は、精神生活の座としての<霊魂>です。

イエス様は、弟子の一人が裏切ることを、心の底から残念に思われました。

イエス様はその直前に、弟子たちの足を洗われました。

そして14節で『主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません』と言われました。

それは、弟子たちはイエス様に見倣って、互いに仕え合うことを言われたのです。

イエス様は、このことばでイスカリオテ・ユダに、心を改めるように迫られました。

それにもかかわらず、ユダはイエス様を裏切りました。ユダは何故イエス様を裏切ってしまったのでしょうか。ユダは、銀貨30枚に目がくらんだのでしょうか。(マタイ27章9節)

それとも、イエス様が自分の思っていたような救い主ではないと分かったためにそのような行動をとったのでしょうか。 イエス様の心の動揺は、ユダの滅びに対する残念な思いの現われです。

いずれにしてもイスカリオテ・ユダは、イエス様の期待に沿うことはできませんでした。

イエス様は、私たちにも期待しておられます。

私たちクリスチャンが、互いに愛し合い、神の栄光を現わし、イエス・キリストを証しすることを期待しておられます。 私たちは、そのイエス様の期待に応えているでしょうか。もう一度、自分の信仰生活を振り返る必要はないでしょうか。

私たちは、生まれながらに罪ある者でしたが、主がその罪を贖ってくださいました。そのことを感謝することが、主の期待に応えることです。

受難週の時を、イエス様の苦しみが、私の罪のためであったことを再度思い起こし、イエス様の十字架の苦しみを覚えつつ過ごさせていただきましょう。

そのような者が、イエス様の期待を裏切ることは決してありません。

八鹿教会の皆様方のこれからの信仰生活が、主の祝福に満ちたものとなりますように願っています。

アーメン