=教会が聖霊によって一つとなるために=

<福音書>Ⅰコリント12111

私たちは、霊的なことは理解しずらい。それは<御霊の賜物>は自分で獲得するものではなく、神様から与えられるものだからです。人が霊的に優れているかどうかは、霊的な賜物を与えられている人にしか分からないのです。

コリント教会は<御霊の賜物>を理解せず、分裂がありました。また「イエスはのろわれよ」と言っていた者がいたようです。恐ろしいことばです。

神の聖霊によって捕らえられた者は、「イエスは主です」と言うのです。神様の教会を築き上げ、この世で神の使命の遂行を助ける能力は恵みの賜物です。

従って「イエスは主です」と叫ぶ者は、御霊の賜物をいただいた人です。

また私たちには、与えられた賜物を神様のために用いることが期待されています。

でも人は弱いものです。何かの才能が与えられると、それは自分の力で獲得したものと勘違いする。自分は人よりも優れた者だと誇るようになる。

そこに落とし穴があります。コリントの教会は落とし穴に落ちたのです。それでパウロは、賜物の源が神ご自身であり、賜物の目的が教会全体のためであると訴えるのです。

賜物は、それを与えられた者が、神様の栄光のために用いた時、まことに“御霊の賜物”として働くのです。

賜物の与えられ方をよく観察しますと次のことが分かります。

☆すべてのクリスチャンには、何らかの御霊の賜物が与えられている。

☆すべての賜物を与えられているクリスチャンはいないことです。

☆ある一つの賜物を全員が共通に持つことはない。

そこで私たちは、次の原則を見い出します。

★すべてのクリスチャンは、神様のために何かすることができる。

★一人で何でもできる人はいない。

★互いに相手を必要とし、互いに補い合い助け合わなければならない。

それは『みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられている』からです。

また神様は、八鹿教会にもご計画に従って御霊の賜物を与えらました。

私たちが、与えられた賜物に感謝するとき、八鹿教会は一層<御霊によって一致する教会>へと変えられるのです。

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