=私たちが弱い人を支える教会となるために=
<福音書>Ⅰコリント12章12~31節
パウロは12節で“教会”を“キリスト”と言っています。イエス様が教会の頭であり、弱い人々に憐れみをかけられたからです。
教会は弱い人をも尊び、キリストに倣うのです。キリストから目をそらし世の欲に目を移した時、教会はその機能を果たせなくなります。
子どもたち/お年寄り/病気がちな方/心の弱さを持っている方。教会に弱い立場の方がいることは神様の配慮です。教会は、調和して主に仕えるために弱い部分も必要です。
あなたも自分の弱さを知っている。「誘惑に弱い自分」「昔の罪に後悔し続ける自分」を知っている。サタンは、そのようなあなたにささやくき、その者をキリストから引き離そうとする。
教会が弱い人のために祈れることは幸いです。
人の弱さのために祈る者は、自分の弱さに寄り添ってくださる方に気づかされるからです。
それでも、ある人は「健全な教会は、すべての信徒が賜物を用いてイエス・キリストの栄光を現す信仰者の集まりです」と言います。
それに対して、パウロはこのように答えるでしょう。「そのような教会は不完全な教会だ。なぜなら、その教会には弱い人がいないからだ」と。
もし、教会の中に、弱い部分(配慮を必要とする部分)がないなら、その教会は配慮がないことにおいて不完全です。
教会を構成する一人ひとりは、配慮されるべき弱い部分を持つ不完全な信仰者です。
教会は、人の苦しみを自分の苦しみとして祈り合い、人の喜びを自分の喜びとして感謝するところです。教会に祈るべき課題が与えられていることは神様の恵みです。
私たちが、自分の内に弱さを覚えることは、人に祈っていただけることにおいて幸いなことです。神様の恵みは、いつも私たちに十分に与えられています。
教会に弱さがあること自体は問題ではありません。教会が弱さを<克服すべきもの>と捉えるか、それとも弱さを<一人ひとりが支え合うべきもの>と捉えるかによって、教会は分裂もするし成長もするのです。
互いに与えられている弱さに寄り添って主に仕える時、私たちは自分の弱さも、教会の弱さも“神様からの恵み”であることに気が付くのです。
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