=教会があなたの安らぎの場となるために=
<福音書>ルカの福音書2章41~52節
イエス様が12歳の時、両親とともにエルサレムへ昇られました。その帰りヨセフもマリヤは、イエスが集団の中にいないことに気が付きました。それで彼らはエルサレムまで引き返しました。
さて、両親が見つけた時、イエス様は宮の中で教師たちの真ん中で話を聞いたり、質問したりしておられました。教師たちは、少年イエスの知恵に驚いていました。
さて「何故こんなことをしたのですか」と問いかけるマリヤに、イエス様は言います。『わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか』。
イエス様はこの時までヨセフの仕事を手伝い、弟たちの面倒も見てマリヤを助け、ごく普通の家の長男として育ってこられた。それこそ父ヨセフと母マリヤに仕えて来られた。そのため両親は、わが子イエスを見失っていたのではないか。
ヨセフもマリヤも、イエスは自分たちの手の中にあると思うようになってしまった。
彼らには忘れてはいけないことがあったはず。13年前、マリヤに現れたガブリエルのことばを、ヨセフの夢に現れた主の使いのことばを忘れてはいけなかった。
しかし、彼らは忘れた。彼らは、決して忘れてはならない事を忘れてしまった。
私たちも忘れてはいけないことを忘れてしまってはいないでしょうか。
私たちは洗礼を受けた時から、聖書を読み、奉仕を担当し、祈って信仰者として成長してきました。そのように成長する中で、私たちは自分の手の中にイエス様がいると思い込いないでしょうか。
間違ってはいけません。まことの安心感や平安は、私たちの手の中にイエス・キリストを持ったときに与えられるのではなく、私たちが神様の手の中/イエス様の手の中に握りしめられたときに与えられるのです。
その後、イエス様は地上の生涯の最後まで“父の家”にいるために、十字架を身に受けられたのです。それ故、イエス様ご自身も「私たちの父」です。
それは<教会>が、私たち信仰者にとって「私の父の家」となるためです。
そして、私たちが教会の中ではぐくまれる時、教会はあなたの<安住の地>となり、私たちは世の悩みの中にあっても悩みとともに生きる力も与えられるのです。
Write a comment: