=あなたがキリストの声をはっきりと聴くために=

<福音書>ルカ92836

イエス様は、ペテロ/ヨハネ/ヤコブを伴って祈るために山に登られました。そのイエス様の祈りに対して、二つの答えが与えられました。

一つは『御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた』ことです。これがイエス・キリストの神の栄光の内におられる本来の姿です。

祈りの一つは、弟子たちに「ご自分は、神の国に属する者」であることを示すことでした。

もう一つの答えは、モーセとエリヤが現れたことです。モーセは旧約聖書の律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表です。

イエス様がこの二人と話し合っていることは、「イエス様が旧約聖書に預言されているメシヤである」ことを示しています。

イエス様は、三人の弟子にご自身の本来の姿を示し、ご自身が聖書に預言されているメシヤであると教えることだったのです。

しかし、三人の弟子の心は鈍かった。彼らは眠っていた。それで彼らは、栄光の光に照らされて初めて目がハッキリと開かれた。

ペテロは慌てて「三つの幕屋を造ります」と的外れなことを言ってしまった。

本来、彼らは何も言う必要はなかった。何もする必要はなかった。しっかりとイエス・キリストを見つめ、「イエス様は、誰なのか」を心に刻めばそれでよかった。その上でイエス様につき従えばよかったのです。

私たちはどうでしょうか? 三人の弟子の眠っている姿は、私たちの姿ではないでしょうか。

ここで私たちは「あなたの目は、イエス・キリストに注がれていますか」と問われています。 信仰者は、霊的な心を目覚めさせるために、キリストの栄光をハッキリと見つめる必要があります。

「キリストの栄光」。それは、主の十字架です。十字架の死。それはみじめな姿です。

しかし、私たちは、白く輝く栄光のイエス・キリストの姿を心に焼き付けることによって、一見、みじめとしか映らない十字架の死が、私の罪を赦すための<まことの栄光の姿>であることが分かるのです

私たちに求められることは、霊的な目/霊的な耳でみことばに触れることです。

そのように神様のことを正しく聞くものが、天の御国に戻った時、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と褒められるのです。

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