<讃美歌>讃美歌238番「いのちの糧 主よいま」
<聖書日課>ルカ18章31~34節「霊の目でイエスを見る」
この時からイエス様は、顔をエルサレムに向けて歩み出されました。
かつてイエス様は、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」(ルカ13章33節)と言われ、王であり祭司であり預言者でもあるご自分が、エルサレムで殺されることを預言されました。
そしてイエス様は、ご自分がエルサレムで死ぬことは旧約聖書の預言の成就であると宣言されました。
イザヤ書53章は「苦難のしもべ詩」としてよく知られていますが、そこには『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』と預言されています。
イエス様も、ご自身が『人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。』とご自分がどのような扱われ、死ぬのかを預言されました。
もしイエス様が、預言通りに死ぬだけであったなら、それは正義の敗北でしかありません。
主は「人の子は三日目によみがえります」と希望のことばを宣言されました。
しかしながら、この預言を聞いた弟子たちは「これらのことが何一つわからなかった」ようです。
弟子たちの霊の目が完全に閉ざされていたので、このようなことを言われるイエス様は誰なのかがまったく理解できなかったのです。
今、私たちはこの箇所を読んで、このイエス様のことばは、ご自身の十字架の死と復活を言っておられることを理解しています。
また私たちは、そのことばの通りにイエス様は十字架で死んでくださり、復活されたことも知っています。
では私たちは、今イエス様をそのような方として信じているでしょうか。信じることは委ねることです。
私たちは、信仰生活のすべてにおいてイエス様を信じ、委ねて過ごしているでしょうか。
もし私たちが、みことばをおろそかにする生活を過ごしているならば、この時の弟子たちのように、みことばの恵みは私たちからは隠されてしまいます。
ここでイエス様は私たちに、「みことばに信頼しなさい。救い主キリストである私に委ねなさい」と言われています。
この後、弟子たちは霊の目が開かれて「イエスは誰か」がハッキリと教えられ、イエス様にすべてを委ねる者に変えられました。
私たちも、今よりもさらに霊の目を開かせていただき、「イエス様は私にとって誰なのか」をよりはっきり教えられましょう。
その時、あなたは聖書のみ言葉の恵みをより一層すばらしいものとして示されるのです。
アーメン
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