<讃美歌>讃美歌410番「救いのぬし主よ」

<聖書日課>ルカ15章1~7節「罪を知らない罪人」

『ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる

喜びが天にあるからです』(7節)とあります。イエス様がパリサイ人/律法学者に言われたことばです。

このことばは、一人の人が自分の罪を認め、神に立ち返ることの喜びを表現したことばです。

焦点は、あくまでも一人の人であり、99人ではありません。

パリサイ人たちは、このイエス様のことばをどのように聞いたのでしょうか。

「自分は、99人の正しい人の中に入っているから、この話は自分とは関係ない」と思って聞いていたのではないでしょうか。

彼らはこのようにつぶやきました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする」。

この彼らのことばの背景には、「自分は罪人ではない」という傲慢があります。

実は、そこにこそパリサイ人/律法学者の罪があるのです。

彼らは、「自分たちは律法の決まり事をきちんと守っている」と言っているけれど、

神様の思いを理解していなかった。

その神様の思いをすべての人に知らせるためにイエス・キリストがこの世に来られた。

パウロは言います。『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない』。(ローマ3章23節)

人は誰一人として、「私は罪人ではありません」と言うことはできません。

パリサイ人/律法学者は、自分たちも失われた一匹の羊であることに気がつきませんでした。

そしてそのことは私たちにも教訓として語りかけています。

「あなたは、自分の罪を日々告白して、常に救われた喜びに立ち返っているだろうか」。

私たちは、自分が罪人であることを良く知っています。クリスチャンは<義人であり罪人>であるからです。

しかし私たちは時として、自分が罪人であることを忘れ、他の人に対して傲慢になることはないでしょうか。

パリサイ人/律法学者のように、他の人を「あの人は罪人だ」と言って指さすことはないでしょうか。

人は、知らず知らずのうちに自分の罪を忘れ、「罪を知らない罪人」になっていないでしょうか。

私たちの信仰の目は、他の人の上に注がれるのではなく、いつも主イエス・キリストに注がれなければなりません。

その時、主はあなたを通してご自身の栄光を現わしてくださいます。

その時、あなたはイエス様とともに、他の失われた羊を一生懸命に探すことができるのです。

あなたの信仰の歩みを、主が豊かに祝福してくださるように祈ります。

アーメン

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