<讃美歌>讃美歌346番「はかりも知られぬ」
<聖書日課>ヨハネ16章16~24節「悲しみを越えた喜び」
『しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます』。(ヨハネ16:16) イエス様の弟子たちへのことばです。
このことばは、イエス様が十字架で死に墓に葬られ、また死を打ち破って復活される預言のことばです。イエス様は、このことばを最後の晩餐の席で語っておられます。
弟子たちは、明日イエス様が十字架につけられることを知りませんでした。
もちろんイエス様の復活におよんでは、まったく想像すらできませんでした。
イエス様の十字架により、弟子たちの心は悲しみで満たされました。
弟子たちにとってイエス様は、神の子であり、キリスト(救い主)でした。まさしく英雄でした。
その英雄イエスが、彼らの目の前で十字架につけられ死んだのです。
弟子たちの心を覆ったのは、悲しみと恐怖と無力感です。
しかし復活の事実は、弟子たちの心から悲しみを取り去り、喜びで満たしました。
その喜びは、誰にも奪い去られることのない<永遠の喜び>です。
イエス様は、その苦しみとその後の喜びを、女性が子どもを出産するときの苦しみと喜びにたとえられました。私は男ですので、女性が子どもを産むときの苦しみと、産んだ後の喜びは感覚としてよく分かりません。
神学生のとき、ある女性が話しておられました。
「子どもを産むときは本当に辛かったけれど、産んでしまうと嬉しくなり、もう一人産みたいと思った」と。
イエス様は弟子たちにとっては、主の十字架と復活は、
「女性が産みの苦しみと、その後の喜びを受け取るようなものだ」と言われたのです。
イエス・キリストの復活は、弟子たちには、悲しみの後、新しい命に生きる希望を与えるものです。
私たちクリスチャンも、自分の罪に気がつかされた時、その罪の大きさのために悲しみました。
しかし、イエス様が十字架の苦しみを通して、私の罪を解決してくださり、さらにイエス様の復活により私にも、永遠のいのちに復活する確かな希望を与えてくださいました。
それゆえ、今クリスチャンである私たちは、「悲しみを越えた希望」を持っています。
この世においては、私たちクリスチャンも様々な問題で悩み、悲しむときもあります。
しかし、信仰者はもはや「途方にくれるときがあっても、行きづまることはありません」。(Ⅱコリント4:8)
私たちは、永遠の希望に生きる民です。
この希望をしっかりと見続けて喜びのうちに生かされる者とされましょう。
アーメン
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