マタイの福音書18章21~35節
創世記50:15-21のところでは、兄弟たちに売られてエジプトで奴隷にされ、神様の不思議な導きで、ついにはエジプトの宰相になったヨセフが、あなたたちの悪を神が良いことに変えて下さったと言って、兄弟たちを赦します。それは自分自身の思いで赦せることではなく、神様の導きと、人間のなした悪事さえ良いことに使われていく、という神様の不思議なご計画があったからでした。
一方で、現実世界で人間はそう簡単に人を赦せません。しかし、私たちは相手を赦さなければならない。そこで、どうしたら人を赦せるのか、悩み苦しむのが人間です。でも神様は、詩篇103:8-10にあるように、どこまでも深い憐れみをかけて下さいます。神様はいつまでも争ってはおられず、とこしえに怒ってはおられません。その究極が、イエス様が私たちの罪を負って十字架にかかって下さったことで、私たちが赦されたことです。なぜ赦されたのでしょうか。それは私たちが神様にとって実に大切な子どもだからです。今日のローマ14:7-10で言うように、神様が私たちを愛されているからこそ、私たちは神様を愛すことができますし、神様の愛と赦しの中で、人間は生きるのであり、死んでいくのだということです。であるからこそ、同じ神様に愛されている兄弟姉妹を愛さなければなりません。
今日のマタイ18:21-22で、「罪を赦すのは何回までですか」とペテロがイエス様に尋ね、イエス様が「七回を七十倍するまでです。」と言われたのは、無限に赦しなさいということです。でも人は納得しません。そこで、イエス様はマタイ18:23-26で、さらに王と家来の負債のたとえを言われます。主君は神様で、家来は私たち人間のことです。人間は神様からの負債を返せるでしょうか。この一万タラントのたとえは、人間には返済が不可能なことです。しかし、この家来が返せると思うなら、彼は傲慢にも、神様に対していかに自分が小さなものであるのか、を認めていないということです。
主君が家来の負債を赦した後の彼の言動はひどいものでした。彼は仲間の小さな負債を取り立てようとします。これは、正に日常の私たちの言動なのではないでしょうか。
神様はどこまでも私たちの罪を赦して下さる、しかし、私たちがそれに甘えて神様に背くべきではないのは当たり前です。また、自分の力に全面的に頼ることも間違っています。私たちの神様に対する罪という負債は、自分の力で返すことができず、日々、神様に対する新たな負債を造りだしているのが現状です。ですから、私たちが不可能な罪の弁済は、イエス様を通して、自分の罪の赦しを祈り願っていく、それ以外に方法はありません。
簡単なことではありませんが、自分に寄り添って下さり、力を与えて下さる神様に頼りながら、赦すことができない相手に対して、祈りながら赦していきましょう。そうできるようにと、私たちの人生のすべてを用いてご計画を進めて下さっている神様が、私たちを導いて下さっています。そのことに安心して今日の日を新たに歩んで行きましょう。(福田 学師)