マタイの福音書16章13~20節
きょうの舞台ピリポ・カイサリアにはヨルダン川の源泉となる「パニアスの泉」がありました。泉のほとりにはギリシャ神話の神「パン」(パニックの語源)をまつる神殿がありました。また「ピリポ・カイサリア」という名前は時の領主と皇帝の名を冠したものでした。そんな偶像崇拝と人間崇拝の象徴であった場所で、イエス様は「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と弟子たちに問いかけられたのです。これは人間にとって一番重要な問いです。これに対し、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と告白し、イエス様も「あなたは幸いです」とお答えになりました。イエス様を神の子キリストと告白する者は、よみの門(死)でも打ち勝てないほどの「広大な幸い」(マカリオス)を持つのです。キリスト教会はこの信仰の上に建っています(18)。この信仰は、人間の力ではなく天の父なる神様によって与えられるものです(17)。信仰も、救いも、恵みも、すべて神様からタダで与えられるもの。私たち人間にできることは、ただ神様の恵みと救いを「受け取る」ことだけです。神の子であるイエス・キリストが、私たちの罪を代わりに背負って十字架で死なれ、よみがえってくださいましたから、そのおかげで私たちは何の代償もなしに救われるのです。
ではそのような大きな恵みを受けた私たちは、どのように生きるべきでしょうか?聖書は「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」と勧めます(ローマ12:1)。ここで使われている「ふさわしい(ロギコス)」という言葉は、「ロジック」の語源であり、「理にかなった、合理的な」という意味を持ちます。「受けた恵みは他者に分け与える」。これこそ「理にかなった」ことなのです。
豊かな水を湧き出させて多くの命を育む「パニアスの泉」に比べて、出口がなく水を溜める一方の「死海」は、岩塩の塩分のために生き物が一切住めません。私たちも、神様からの一方的な恵みをただ溜め込んで、感謝を表さず、他者へと分かち合わなければ、不健全な「死海」のようになってしまいます。まず礼拝で豊かな恵みをいただき、それに応えて心から主を賛美し、感謝のささげものをし、日々の生活の中で人々に奉仕し、御言葉を伝えましょう。受け取った恵みを外へと流し、神と人に自分をささげていくことこそ、最も理にかなった、最もふさわしい、「合理的な礼拝」なのですから。
(永田 令牧師)