マタイの福音書11章25~30節

「子どもに聖書の話が分かるだろうか?」と大人は懸念します。しかしむしろ「大人は子どものように聖書の話が分かるだろうか?」というのがイエス様のお考えだと思います。イエス様は「天地の主である父よ、あなたはこれらのこと(神の国の真理)を、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と祈られました(25)。神の国は、知識や経験を誇る「知恵ある者」ではなく、子どものように素直にみことばを信じる者にこそ示されるのです。大人はつい理屈で考えがちですが、幼子のように「神様ってすごい!」とありのままに驚き、受け入れる人にこそ、天国の門は開かれています。
続いてイエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいました(28)。私たちが背負う最大の重荷、それは自分の力ではどうにもならない「罪の重荷」です。世界中にキリストを伝え、新約聖書後半のほとんどの手紙類を書いた偉大な伝道者パウロでさえ、「私は本当にみじめな人間だ」と、自らの罪に苦しみ続けました(ローマ人への手紙7章)。しかし彼はその都度イエス様を見上げ、わたしたちの罪を背負って代わりに十字架で死んでよみがえられたイエス様の所に罪の重荷をおろしたのです。それによって心に休息を得て、あのような偉大な働きが出来たのでした。
重い荷物を背負ったおばあさんが、親切な男の人の荷車に乗せてもらいました。ところが「申し訳ないから」と、荷物を背負ったまま乗っていたのです。男の人は悲しみました。「おことばにあまえて荷物をおろさせていただきます」と言ってほしかったのです。これと同じことを私たちもイエス様に対してしていないでしょうか?「自分の罪は重すぎるから、自分も何かしなければ」と頑張ることは、かえってイエス様を悲しませます。「イエス様の十字架によって私の罪は全部ゆるされた!」ということを、子どものように素直に信じましょう。おことばにあまえてイエス様の所にすべての重荷をおろしましょう。そのとき、心に休息が与えられます。その喜びによって、イエス様のことを誰かに伝えたくなるのです。パウロがそうであったように。 (永田 令牧師)