マタイの福音書13章31~33節、44~46節
イエス様は多くのたとえ話をされました。それはどれも、民衆にとって身近な題材でした。それらのたとえでイエス様は「天の御国」について人々に教えようとされたのです。きょうの箇所では「からし種」「パン種」「畑に隠された宝」「高価な真珠」というたとえによって、天の御国の本質を説かれました。
「天の御国」とは「どこか遠くにあって、私たちが努力してそこを目指し、あわよくば死後に到達できる」ようなものではありません。天の御国の方から私たちの方へ「近づいてくる」ものです(マタイ4:17)。すなわち天の御国とは「イエス・キリストご自身」に他なりません。イエスキリストを「人生の模範」とか「役に立つ教師」としてではなく、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださりよみがえられた「救い主」として受け取るなら、天の御国が私たちのものとなります。畑に宝を見つけた人が喜びのあまり持ち物すべてを売り払ってその畑を手に入れたように、また高価な真珠を見つけた商人がすべてを売り払ってそれを手に入れたように、キリストという存在は、人生のすべてを投げ出しても惜しくないほどの「圧倒的な宝」なのです。
宗教改革者ルターは、当時の教会が「免罪符を買えば天国に行ける」と説き、民衆もそれに殺到していた現状に反対し、「教会の真の宝は免罪符ではなくイエスキリストの福音である」と宣言しました。善行や奉仕、献金などは、真の宝を覆っている「土」のようなもの。大切なのは、「土」に目を奪われるのではなく、その奥に隠されたイエスキリストという「宝」を発見することです。
使徒パウロもかつては厳格な律法学者でした。「人は行いによって救われる」と説き、クリスチャンを迫害していました。しかしイエスキリストと劇的な出会いをし、イエス様こそ圧倒的な宝であることがわかって、それまでのすべての誇りを「ちりあくた」と見なすほどに価値観が変えられました(ピリピ3:8)。
この福音は、初めは目に見えないほど小さな「からし種」や「パン種」のように思えるかもしれません。しかしイエス様を救い主として受け入れ、礼拝を通してイエス様との生きた交わりを深める時、聖霊様の導きによって、私たちの内なるいのちは驚くほど成長します。小さな種が大木となって鳥を憩わせ、少量のパン種が多くの人を養うパンを生み出すように、私たちも周囲の人々を喜ばせ、憩いを与える存在へと変えられていくのです。これが天の御国の圧倒的な力です。今週もこのイエス様と共に、イエス様と交わりながら、いろいろな場所で、いろいろな人に、出会って行きましょう。イエス様によって私たちは既に「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)になっているのですから。
(永田 令牧師)