マタイの福音書10章24~39節
今日の聖書の箇所で、イエス様は「わたしが来たのは平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ」と驚くべきことをおっしゃいました。イエス様は「平和の君」だと聖書に書いてあるのに、なぜそんなことをおっしゃったのでしょうか?イエス様が打ち壊そうとされたのは、人間が心に罪を内在させたまま取り繕っている「人間同士の平和」です。「パックスロマーナ」(ローマによる平和)が、じつは強大な軍事力によって保たれていたように。
「わたしよりも父や母や息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」という厳しい言葉によって、イエス様は人間が取り繕っている平和を揺るがされます。十戒の第1戒で命じられている通り、「どんなものよりまず神をおそれ、愛しなさい」というのは、じつは当然のことです。家族も仕事もいのちもすべて神様が与えてくださったものだからです。しかしわたしたちはどうしても神様よりも家族や自分のいのちを大切にしてしまいます。それが人間の現実です。
神様はそのことをご存じの上で、御子イエスキリストを地上に送り、人間の代わりに十字架で罰してくださいました。そのおかげで人間は神様との間に平和を持つことが出来るようになりました。誰でもイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人は、キリストの死と結ばれ、同時にキリストの復活と結ばれます。そしてイエス様のいのちで日々新しくされます。洗礼からどんなに月日がたっていても、悔い改めるたびに毎日罪に死んで、毎日「新しいいのち」に生き返るのです。
このイエス様のいのちが与えられた人は、自分では不可能だった「人を赦す」ということが出来るようになります。ある女性は、自分を裏切った夫への深い憎しみに囚われていましたが、十字架のイエスキリストを信じて洗礼を受け、憎しみから解放されました。過去の痛みが魔法のように消えたわけではありません。古傷にうなされる夜があっても、朝にはキリストのいのちによって笑顔を取り戻し、感謝の歌を歌うことが出来たのです。これこそ復活のイエス様による新しいいのちです。わたしたちも日々悔い改めて、イエス様の十字架のもとに立ち返りましょう。そのときわたしたちは今まで以上に家族を愛し、隣人を愛し、神様を愛する者へと変えられていくのです。(永田 令牧師)