2025年02月02日(日)

=神の愛に感謝する者とされるために=

<福音書>ルカ42130

ナザレの人々は、イエス様が神の恵みのことばを語る現実を受け入れられませんでした。だから「この人はヨセフの子ではないか」と言ったのです。ここに人々の“身勝手な信仰”があります。

イエス様も、ナザレの人々の心に真の信仰を見い出せなかった。それで『預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません』と言われました。

そのことばでイエス様は、ナザレの人々が自分たちの偏見と不信仰に気づき、イエス様を受け入れることを願われたのです。でも彼らは理解しなかった。

それでイエス様はエリヤとエリシャの事例を語られました。それはイエス様が「あなたがたはあの大預言者エリヤやエリシャ以上に尊ばなければならない救い主メシアをヨセフの子にしてしまった」と言って責められたのです。

それで人々は、イエス様を崖から突き落とそうとした。でもイエス様は、難を逃れて去って行かれました。

その時は、キリストの時(十字架の時)ではなかったからです。この後も偏見や無理解が付きまとい、人々はイエス様を追い詰め、最後は十字架にまで追い詰めそこで殺してしまった。

イエス・キリストの十字架は、私たちに叫んでいます。「あなたは、イエス・キリストを追い詰めてはいないか」と。

かつて私たちはイエス・キリストを無視して生きていた。そして未だに心の内にイエス様に信頼しきれない自分がいることも知っている。私たちも“身勝手な信仰者”です。

私たちも、イエス・キリストを十字架にまで追い詰めた一人です。であるならば最後の審判のとき、永遠の死に追い詰められるのは私たちではないか。

そのような私たちに、神は逃れの道を備えてくださった。イエス様を復活させられたのです。イエス様の十字架の死と復活。それは私たちの絶望からの逃れの道です。

それによって神は、私たちに<永遠のいのち>を約束してくださった。そこに、身勝手な信仰者に示された“神の愛”があります。

それを思う時、私たちはイエス様の十字架と神の愛に感謝しつつ、日々の信仰生活を歩まざるを得ません。そうする時に、身勝手な信仰者は謙虚な者へと作り変えられるのです。