2025年01月26日(日)

=あなたがみことばから喜びを受けるために=

<福音書>ルカ4章14~22節

「御霊の力を帯びて」(14節)のことばは、イエス様の教えと行いには、聖霊の力が働いていたことを意味します。

ここで「御霊の力を帯びて」とのことばには三つの意味があります。「イエス様の教えと行いの力の源は神にあった」こと。「イエス様の行いが、神の意志に従って行われていた」こと。もう一つは、人々への影響です。

聖霊は、人としてのイエス様に神の力を与え、神の意志に従うように導き、またその教えを聞く人にも「イエスは誰か」を悟らせたのです。しかしイエス様がナザレの会堂で教えられた時、人々の反応はひややかなものでした。

ナザレの人々はイエス様を小さい時から知っている。「イエスじゃないか、久しぶり」。人々はそのように迎えたでしょう。その声の響きは、自分たちの仲間イエスに対する響きです。村人には、神への畏れがなかった。

それで敢えてイザヤ書61章のみことばを朗読されました。このみことばは、神のメシア預言の成就を示すことばです。このことばでイエス様は「自分こそ救い主キリストである」と語っておられるます。

「主の霊がわたしの上にある」とは、わたしは神に選ばれた者であり、わたしの行動/わたしの教えは聖霊によって支えられているとの意味です。

「貧しい人に良い知らせを伝えるため」。救い主は、自分の心の貧しさを知っている者に良い知らせ(福音)をもって、心を平安で満たすのです。

「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」。イエス様は、ご自分も神から任命された者だと主張されています。

「捕らわれ人には解放を‥」。救い主がもたらす“良い知らせ(福音)”は人を罪の刑罰から解放し、その者に神の恵みと赦しを与えるのです。

「目の見えない人には目の開かれることを告げ‥」。救い主キリストは、霊的に盲目であり神を見失っている人にも福音を語り、霊的な心の目を開かれるのです。

「虐げられている人を自由の身とし‥」。たましいの自由が奪われている人が、毎日の生活の中で、神との関係を回復し神中心の価値観をもって生きることです。

「主の恵みの年を告げ知らせるために」。救い主が来られ神の恵が実現する時は、まさに今なのです。イエス様は、「わたしこそ、聖書にその到来が預言されている救い主メシアである」と宣言されたのです。

でもナザレの人々は、イエス様が救い主キリストだとは分からなかった。だから彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言ってイエス・キリストを否定したのです。

みことばが分かるとは、イエス様が自分にとって誰なのかが分かることです。

あなたは、神のみことばに感動していますか。クリスチャンが“みことばの民”と呼ばれるのは、神のみことばを感動をもって受け止めるからです。それが<みことばが分かる>ということです。

ナザレの人々は、みことばが分からなかった。イエス様のことばを聞いても、聞き流してしまった。彼らが持っていた先入観が、彼らからみことばを隠してしまった。

なぜそうなってしまったのか。ナザレの人々が、救い主イエス・キリストを見ず、人間イエスを見たからです。

聖書の主人公はイエス・キリストです。それで、私たちクリスチャンが<みことばの民>であるとは、聖書のみことばを自分の生きる指針とすることです。

聖書の中にはイエス・キリストが満ちあふれています。ですから私たちがイエス・キリストを知れば知るほど<みことばが分かる者>とされるのです。

そして、みことばが分かれば分かるほど、あなたはそこに神がともにおられる喜びを見い出し、みことばに生きる者へと変え続けられるのです。そのような者の心に、神の恵みがあふれるのです。