2025年12月28日(日)
=あなたが主に正しく導かれるために=
【説教要約】<福音書>マタイの福音書2章13~23節
信仰者にとって最も大きな恵みは、「主がともにおられることが分かる」ことです。
主はすべての人に「わたしはあなたとともにいる」と語りかけておられます。その声を聞き取るかそれとも聞き逃してしまうかは、大きな違いがあります。
主は夢でヨセフに「エジプトに逃げるように」告げられ、ヨセフはそれが「神の知らせである」とすぐに気がつきました。神の声は、いろいろな形で人に語りかけます。ヨセフには夢の中で語りかけました。
信仰に基づくとき、神の声は恐れを締め出します。ヨセフは恐れずにマリアを妻として迎えました。
信仰に基づくとき、神の声はその者に理性を超えた信頼を与えます。ヨセフはマリアの聖霊による懐妊の事実を信仰によって受け止めました。
信仰に基づくとき、神の声はその者をしてすぐに行動へと移させます。ヨセフは、朝を待たずに幼子のイエス様とマリアを連れてエジプトへ逃れました。
神は絶えず私たちに語りかけておられます。説教のみことばによって、他の信仰者の口を通して、そして聖書のみことばによって私たちに語られます。
イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8章8節他)と言われます。 では「聞く耳のある者」とは、どのような者でしょうか。
聖書の中では、ヨセフは黙って従う人として描かれています。しかしヨセフの行動は彼の信仰を現わしています。夢で「エジプトに逃れるように」との神の声を聞けば、黙ってすぐに起き上がり夜のうちに出発しました。
一方ヘロデは、博士たちの声を聞いてもそれを神の声として聴かず、かえってキリストを殺すことを計画したのです。神に逆らう者が神の祝福を受けることはできません。
ではヨセフとヘロデの神のことばへの応答の違いは何から生じたのでしょうか。
一つは、主の前に謙虚に仕えようとする姿勢の違いです。ヘロデは思い上がり、自分を神の上に置いてしまった。神の上に立った者は、神を見上げることはできません。
それに対してヨセフは、ただ黙して主に従ったのです。“聞く耳”は、主に謙虚に仕えようとする者に与えられる賜物です。
二つ目は、神の愛の現われであるキリストの到来への感謝です。ヨセフはキリストの到来に感謝して幼子のイエス様を守ろうとします。
しかしヘロデにとっては、キリストは“目の上のたんこぶ”でしかなかった。だからそれを取り除こうとしたのです。キリストへの感謝の想いを持つ者に“聞く耳”は与えられるのです。
三つ目は、神のことばに恐れないで従う“柔らかい心”です。ヨセフは神のことばに即座に従いましたが、ヘロデは頑なになり“救い主のしるし”を恐れ,拒み,敵対しました。
聞く耳とは、聞いたことばに素直に従う<柔らかい心>でもあるのです。
四つ目は、自分の王座を手放す覚悟です。ヘロデが神の声を拒んだ最大の理由は“自分が王であり続けたい”という自己中心的な考え方です。でもヨセフは自分の計画よりも神の計画を優先しました。
キリスト者は、自分の王座を神に明け渡した者です。ですから“聞く耳を持つ”とは、自分に対する自分の支配権を手放し、神を王として心の中に迎える姿勢でもあります。
五つ目は、神の語りかけを日常の中で探す姿勢です。ヨセフにみことばが語られたのは、日常のただ中での夢の中でした。
“聞く耳を持つ”とは、「神は日常の中でも語られる」との信仰を持ち、小さな声、小さな導き、小さな気づきを大切にする心です。
最後は、神のみこころを喜ぶ心です。ヨセフは、神の導きがどれほど大変なものであっても、それが神の導きであると分かれば喜んで従ったのです。
“聞く耳”とは、自分の思いよりも神の御心を喜び、受け入れる心でもあります。
それで主は、私たちに問われます。「あなたは聞く耳を持っているか」と。私たちは、どうすれば「聞く耳のある者」になれるのでしょうか。
誰も自分の努力ではなれません。聞く耳のある者は、なるものではなく、されるものだからです。
ヨセフがそうであったように、あなたがいつも心をイエス・キリストに向け、あなた自身が罪の滅びから解放されており、永遠のいのちに生かされている幸いを喜んでおられるなら、あなたは「聞く耳のある者」と変えられていくのです。