2025年09月28日(日)

=あなたがイエス・キリストに感謝するために=

【要約】<福音書>ルカの福音書161931

たとえ話の金持ちは働くことをせず遊び暮らしていた。働くとは「神のために働くこと」であり、遊び暮らすとは「神のための働きを全くしないこと」です。

パリサイ人たちには、多くの賜物が与えられていました。でも彼らはその富を神の想いを実現するために用いなかった。神の想いは、人々が自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。

パリサイ人たちの振る舞いは、神の目から見れば「毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ち」のように映ったのです。

ラザロは憐れみを求めて金持ちの家の門まで来ました。 “ラザロ”とは「神が助ける」という意味です。ラザロは、金持ちの家の門の所でほんの少しの憐れみを求めて寝ていました。

でも金持ちは、ラザロの存在を完全に無視しました。無関心だったのです。そのことは、パリサイ人たちが取税人や罪人と呼ばれる人たちを憐れむことなく無視し続けいたことを表しています。

ラザロから見れば、金持ちの家は天国でした。ラザロは、その家に入りたかった。せめて食卓から落ちるパンくずでも食べたかった。ラザロはほんの少しの憐れみだけでも欲しかったのです。

暫くしてラザロは死にます。遺体はどこかに捨てられたのでしょう。しかし彼のたましいは、御使いたちによってアブラハムの懐に連れていかれました。ラザロは神によって助けられ、御使いたちに連れられて、神の御胸に抱かれることになったのです。

それから暫くして金持ちも死にました。遺体は立派な墓に葬られたでしょう。でもたましいを迎えるために天使は遣わされず、金持ちはそのままよみに下って行った。地獄に落ちたのです。

金持ちは、ラザロに対する無関心と神への信頼の欠如によって裁かれました。金持ちは、ラザロを無視しましたが、神の想いをも無視したのです。

さて金持ちが地獄の中で苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムとその懐に抱かれたラザロが見えました。

ある説教者は、この地獄の苦しみをこのように語っています。「この金持ちが落ちた地獄の苦しみは、天国が見えるところにある」と。

人は苦しみの中にあっても、周りの者が自分と同じように苦しんでいるのなら、耐えられるかもしれません。

でも自分は苦しみの中にありながら、周りの者が楽しそうにしているのを見るのは辛い。自分は苦しみの声を叫びながら、周りの者の楽しそうな声を聞くのは辛い。

その上、その辛い場所から楽しい場所に移るすべがない。金持ちは、そのような地獄に落ちて行ったのです。

でも思い返せば、ラザロは苦しみの中で金持ちが高価な服を着て、毎日ぜいたくに暮らしているのを見ていた。

ラザロは苦しみに中で、金持ちの家から聞こえてくる楽しそうな声を聞いていた。その上、ラザロは決して門から家の中に入ることは許されなかったのです。

ここに、地上で神を忘れ自分の欲に生きる者と、どんな境遇にあっても神に頼る者とに必ず起きる大逆転劇が記されています。

イエス様は、パリサイ人たちの霊的盲目さを憐れみ、彼らをも救いへ導こうとしてこのたとえ話を話しておられます

このたとえ話では、地獄に落ちた金持ちは、ラザロを兄弟の処へ遣わして欲しいと願っています。でも神は断られました。「彼らにはモーセと預言者がいる」と。

イエス様はこのことばで「あなたがたは、聖書に従いなさい」と言っておられます。パリサイ人たちの霊的盲目さが、神の憐れみのことばを隠していたのです。そのため、彼らは弱い立場の者を無視してしまったのです。

それでこのたとえ話は、私たちに問いかけます。「あなたは、弱い立場の人々を憐れんでいますか」と。あなたは金持ちです。イエス・キリストを罪からの救い主と信じて“永遠のいのち”というすばらしい宝が与えられているからです。

パリサイ人は自分の罪が見えなくなっていた。自分の罪が見えない者は、神の憐れみは分からず、天の御国に至る道にも気がつきません。主は言われます『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』。(ヨハネ14章6節)

神の憐れみ。それはイエス・キリストそのものです。私たちは、神からどれほど大きな憐れみを受けたのかをよく知っているので、他の人に神の憐れみを分け与えることができるのです。

また私たちはラザロでした。罪で身を汚し、天の御国に入りたいけれど自分では入れず、憐れみを求めて、弱々しく横たわることしかできなかった。

しかし神の憐れみにより、罪からの救い主イエス・キリストを信じさせていただいた。

それでこの地上にあっても、私たちは主とともに生かされています。天の御国に連れて行かれ、神の懐に抱かれることが約束されています。

神の憐れみを求めることは、イエス・キリストを知ることです。

私たちは、イエス・キリストを知っていることをもっと喜ぼうではありませんか。そうする時に、あなたの周りにおられる次のラザロが、あなたを見て、神のもとに連れて行かれるのです。

それが<神の憐れみに生きる>クリスチャンの道です。