=神様に頼る信仰生活を送るために=

<福音書>マルコの福音書718, 1415, 2123

パリサイ人たちは、イエス様に文句を言いました。「弟子たちは、何故汚れた手でパンを食べるのですか」。

この<汚れ>は、衛生上の問題ではなく儀式上の問題です。パリサイ人たちは言い伝えを厳格に守り、人々にも守るように勧めていたのです。

ただ彼らは、神に仕えるために律法を守るのではなく、律法を守ること自体が目的となっていました。

彼らは体裁を気にして、律法の精神である神様への信仰がおろそかになっていました。神様は、人の表面的な行いは喜ばれません。

神様は、あなたが謙虚になって神を知ることを喜ばれるのです。

神は愛です。人を責めるところに神の愛は存在しません。神の愛は、人を赦す者とともに働きます

パリサイ人/律法学者たちの主張は一見正しいように見えます。しかし、そこには他者への思いやりがまったく感じられません。

イエス様は、そのようなパリサイ人を偽善者と呼ばれました。

神様の人に対する基本的原則は、①人の心は汚れている、②汚れている者は、神に近づくことはできない、という事実です。

人の汚れのリストが21~22節に列挙されています。悪い考え、不品行、盗み、高ぶり、愚かさ、‥。

これらの悪が人の内側から出るとは、このような忌み嫌うべきものが、私たちの心の内側にもともと潜んでいるということです。

パリサイ人は、その汚れを律法や言い伝えを守ることによって聖くしようと努力しますが、主は「それはむだな事だ」と言われます。神の戒めを捨てているからです。

神の戒めとは“信仰”です。福音を受け取る信仰です。

律法や言い伝えによっては、誰も神に近づくことはできません。人は律法を守り通すことができないからです。

それ故、主は私たちに信仰を求められます。イエス・キリストを罪からの解放者として信じる信仰です。その信仰により、私たちは“義”と認められるのです。

律法によっては成し得なかったことを、信仰が完成するのです

主は、私たちが信仰により<神の愛に頼る>ことを望まれるのです。

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