
2023年9月3日(日)
=あなたが間違いのない人生を過ごすために=
<福音書>マタイ16章21~28節
21節のみことばは、私たちに幾つかの問いを投げかけています。
一つは「何故イエス様は“苦しみを受け、殺される”ためにエルサレムに行かなければならないのか」です。
それは、イエス様に苦しみを与えようとしているのは、長老/祭司長/律法学者たちではなく、父なる神だからです。イエス様は、父なる神のご計画(十字架)を実行するために地上に遣わされました。
しかもその原因となったものは、あなたの罪です。そのため、人ができることはただ罪を悔いることだけなのです。
最後は「何故イエス様はよみがえられたのか」です。逆に、もしイエス様のよみがえりがなければ、クリスチャンは惨めです。死後の永遠のいのちの保証がないからです。
しかしイエス様のことばを、弟子たちは理解できませんでした。彼らが、神のことを考えないで、世的なことを考えていたからです。人は、世の繁栄に目を向けた時、まことの神の姿が見えなくなるのです。
それでイエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて従って来なさい」と言われます。“自分を捨てる”とは、自分を否定することです。
人の心から出るものは自己中心的なことばかりです。それらは、人の思いを神から引き離すことにおいて悪いものです。
結局、十字架に向かって歩まれるイエス様に従う道は一つしかありません。それは十字架を負った歩みです。そして、あなたを神から引き離そうとするものを捨てることが、十字架を負うことです。
人は、自分をつまずかせようとするものをこよなく愛している。この世の満足を手放す勇気を与えるもの。それが永遠のいのちです。その価値は、何ものにも代えられません。
それで主は言われます。「人は全世界を手に入れても、まことのいのちを失ったら何の益がありましょう」。
あなたは、この問いかけに、どれ程明確に「私は、イエス・キリストに従います」と宣言されるでしょうか。
その営みは、イエス様のために自分のいのちをささげることであり、キリスト中心に生きることです。そして、そのような者に、主は「あなたは決して死を味わわない」と宣言されるのです。