
2025年09月07日(日)
=あなたが覚悟をもって主に従うために=
<福音書>ルカの福音書14章25~35節
イエス様の後には大勢の群衆が一緒に歩いていました。その群衆に向かってイエス様は厳しいことばを言われました。「自分の親/兄弟/さらに自分のいのちまでも憎まないなら、弟子にはなれません」。
イエス様は、弟子になるとは人生の優先順位を根本から変え、苦しみや犠牲をも受け入れる覚悟が必要だと言われたのです。
信仰とは、ただ「イエス様について行く」ことではなく、「イエス様の十字架をともに担う」ことでもあるのです。イエス様は、その覚悟を求めておられます。
そしてその覚悟も、一人ひとりの状況によって求められる大きさは違います。イエス様は、そのことを27節で「自分の十字架を負いなさい」と言われます。
さてイエス様は、二つの話をされました。「塔を建てようとする人の話」と「ほかの国と戦いを交えようとする王の話」です。この二つのたとえ話に共通して使われていることばがあります。
「まず座って」ということばです。大きな家を建てる前に、まず座って費用を計算しようと言われる。他国の王と戦って勝ち目があるかどうか、まず座って兵力を考えようと主は言われる。
イエス様は、ここで「ご自分の弟子となることは、人生の一大事業であり、軽々に始めるべきではない」と言われたのです。
それで33節の結論があります。『自分の財産すべてを捨てなければ、だれも、わたしの弟子となることはできません』。ここには二つの側面が考えられます。
一つは、弟子の道が実際に厳しい面を持っているからです。 弟子となることは、キリストの苦しさにも与るのです。ですから、栄光に至るための苦しみを通るために、イエス・キリストの弟子となることは覚悟が求められるのです。
もう一つは、イエス・キリストの弟子となることは、大変すばらしいことだからです。
パウロは、イエス・キリストを信じたために持っていたものすべてを失いました。それでもパウロは、イエス・キリストを知っていることの素晴らしを最後まで身をもって語り続けたのです。
イエス様も『自分の財産すべてを捨てなければ、だれもわたしの弟子となることはできません』と言われますが、そのことばは裏を返せば、「わたしの弟子となることは、あなたが持っているすべての財産を捨ててもあり余る恵みがある」ということです。
キリストの弟子となることは、①あなたを、神の愛と真理を表す生き方をするように変えます。 ②あなたに、この世の価値観に振り回されることなく、天の価値を選び取る勇気を与えます。
③あなたに、苦しみの中にあっても、主にある深い喜びと平安を与えます。
私たちは、イエス・キリストにあって必ず勝利します。それは、天の御国で永遠のいのちに生かされることはもちろんのことですが、この地上においても、勝利の生活を過ごせていただけるのです。
ボンヘッファーは「恵みはただだが、安くはない」と言いました。イエス・キリストの恵みは高価なものですが、ただで与えられます。しかしそれを受け取る者は、主に従うことへの覚悟が求められるのです。
イエス・キリストの弟子となることは、神の恵みを受け取るために、すべての人の前に開かれた道です。
・信仰は、決断と覚悟を要求します。それは人生の方向性を変える覚悟です。
・弟子の道は「自己中心的な生き方の放棄」です。それは、人生の主導権をイエス様に明け渡す覚悟を要求します。
・神の恵みの価値を知ることが、すべてのものを捨てる犠牲を可能とします。 捨てることができるのは、得るものの本当の価値が分かっているからです。
主は、あなたの想いをはるかに超えた恵みを与えたいと願っておられます。だから覚悟をもって主に従ってください。
そのとき、私たちは次のことを決して忘れてはなりません。私たちが覚悟をもってイエス・キリストに従うことができるのは、まずイエス様が、覚悟をもって父なる神に従ってくださったからです。
イエス様は、覚悟を持って地上に降りて来てくださり、覚悟をもって十字架に上げられ、血を流してくださったのです。
そのイエス様の深い愛を教えられるからこそ、私たちは覚悟をもって主に従うことができるのです。
それが、キリスト者が歩むべき弟子の道なのです。